禅のお話
ほとけに出逢う
第7回 妙修を放下すれば、本証手の中にみてり。本証を出身すれば、妙修通身におこなわる−高祖道元禅師−
読み(しゅしょうをほうげすれば、ほんしょうてのなかにみてり。ほんしょうをしゅっしんしれば、みょうしゅうつうしんにおこなわる−こうそどうげんぜんじ−)
道元禅師は、如淨禅師の仏法を日本に伝えられ、日本においての初祖=高祖と言われます。「只管打坐」の宗旨を、高祖は「本証・妙修」という言葉で、一層明確にされました。
修は修行。証は証り、真実の証明です。修行の結果として証を得る、普通こう考えられています。ところが道元禅師は、「修証一等」=修と証は一つであると示され、その修と証の関係を、本証・妙修と示されます。
本証とは、私たちは本来、真実そのものの存在である、それを証明する存在である、ということです。それは本来、仏と少しも変わらない存在である、ということです。
ところが私たちは、「自分」というものを認め、「自分中心」に生きるために、迷い苦しんで、本証の自己を昧ましているのです。
私たちが何かの「行為」をすれば、それは全て「自分中心」の罪深い「行為」です。その「行為」を、手を組み脚を組んで一切止めてしまったのが「聖諦すら為さず」という坐禅、只管打坐です。これが修行=妙修です。
「行を迷中に立つ」の言葉のように、それは生身の私がする坐禅ですが、凡夫の行為ではありません。階級に堕ちず、階級を超えて、それは全く「仏の行」、妙不可思議の行ですから、「妙修」と言われます。
「妙修」と言っても、それは坐禅の中で「放下」されて「本証」のみとなり、本証のみであれば本証もなく、「妙修」のみとなって全身で坐禅が行じられる。本証と妙修は二つではなく一つですから、本証と言えば妙修は隠れて本証のみ、妙修のときは本証は隠れて妙修のみ、という道元禅師だけの深い表現がなされています。このことを念頭において、この言葉を味わってください。
2012.07.06 掲載