禅のお話
ほとけに出逢う
第6回 只管打坐して始めて得べし−天童如淨禅師−
読み(しかんたざしてはじめてうべし−てんどうにょじょうぜんじ−)
「坐禅」と言っても、外道の坐禅も小乗の坐禅もあります。達磨大師→洞山大師→如淨禅師と、正しく伝えられた坐禅は「仏さまと全く同じ坐禅」です。それを如淨禅師は「只管打坐」と言われました。青原行思禅師の言われる「聖諦すら為さず」「階級に堕ちない」坐禅が「只管打坐」の坐禅、「仏の坐禅」です。
「只管」とは「ただ」あるいは「ひたすら」の意味です。脚を組み手を組んで仏と同じ姿勢で「ただ坐る」のです。その他に一切何もしません。坐禅する以外に自分の行為を加えないのです。
「皓玉瑕無し、文を彫って徳を喪う」
瑕のない完全無欠な玉。それに彫刻すれば、玉は台無しになります。それと同じように、自己という玉に彫刻を加えて、理想を得よう、仏になろうと手を加えれば、それを台無しにしてしまいます。それを止めて、仏と同じように無条件に「ただ」坐った、それが只管打坐です。
洞山大師の宗風は、綿密で奥深いので目立ちません。道元禅師が真実の仏法を求めて宋の国に渡られた時、この宗旨を正しく伝えている人は、天童山の如淨禅師ただ一人でした。如淨禅師は「只管打坐」の語で坐禅の宗旨を明確に示され、それを道元禅師は日本に伝えられたのです。
2012.03.23 掲載