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清源寺と木喰上人
文化3年(1806)10月、89歳の木喰は物乞いのような風貌で清源寺に現れた。
木喰は白い髭、身長六尺(約180センチ)、壌(つち)色の衣を着て錫杖を持ち、僧でも俗人でもない異形の人であったという。自ら語るに塩を断って50年、寝具を用いず、常に単衣の衣一枚のみで過ごしてきた。全国を行脚し、神仏千体を刻み加持を修する、すなわち仏の大悲・大智を修めることで衆生の病苦を救うのが望みという。
清源寺と「木喰仏」との縁は当寺十二世、当観和尚が十六羅漢を祀りたいと願っていた時期と重なる。ちょうどその頃、清源寺に滞在していた木喰上人は話しを快諾し、文化3年10月から翌年2月25日までの5ヶ月間滞在して28体の神仏を彫刻した。
清源寺の建物は、一部を除き木喰上人が滞在した頃のままである。今は無いが瓦葺きの薪小屋があって、そこの土間を削り漆喰を塗りそこに水を溜め、木を浮かべて仏像を彫ったという。
木喰上人は、全国各地に仏像(木喰仏)を刻んで奉納しているが、ちょうど一千体目が清源寺の「釈迦如来」である。
現在、清源寺には「釈迦三尊」「十六羅漢」「聖観世音菩薩」「勢至菩薩」「住吉大明神」の22体の木喰仏が祀られている。残りは近くの蔭涼寺に5体、鳥取県に1体あるという。
これらはみな微笑みを現しその姿は天真爛漫そのもので、上人の生涯最高傑作といわれている。
「じつはこれ以外に、近年まで秘仏とされてきた幻の29体目があるんです」と小野崎弘顕住職。木喰上人が滞在していた頃、「村の少年が毎日そば粉を運んだそうです。ある時、お礼のしるしにこの仏像をあんたにやるから、誰にも言うな、誰にも見せるなと授けたそうで、今も村のお宅にある」と話す。
木食
木食とは「木食戒」といい修行法の一種。五穀を断ち、肉食せず、火によって料理するものを食せず、そばや木の実を粉にして水を混ぜ、これを常食とする百日間の修行。これを行った者を木喰上人と名乗った。
木喰五行明満上人
江戸時代後期の遊行僧、仏師。山梨県に生まれ、22歳で真言宗に出家。56歳のとき諸国巡礼の旅に出る。
その後60歳を過ぎてから仏像造りを始めた。彼の足跡は、北は北海道から南は九州まで文字通り日本全国に渡っており、訪れた先に一木造の仏像(木喰仏)を刻んで奉納した。その数千体以上。
また、上人は45歳から93歳で没するまで生涯「木食戒」を続けたことから木喰上人が代名詞となり、崇敬された。
一千体満願
廻国の造仏聖として上人の徳名を知る当寺十二世当観和尚の依頼を受けて、十六羅漢などを彫り始めるが、一千体満願である「釈迦如来」を彫り終えた夜、夢に阿弥陀三尊が現れ、上人に「六百歳の長寿と仙人と名乗りなさい」というお告げを受けた。これにより名を、神通光明木喰明満仙人と名乗った。
もとより羅漢は人間的存在ではあるが、この十六羅漢たちの生き生きとした表情はどうであろう。ある者はひたすらに笑い、ある者は酒壺の前で顔を隠し、ある者はウィンクしている。羅漢の最後に彫られた阿氏多尊者の背銘には「神通光明木喰明満仙人」と刻まれているが、そのあご髭を伸ばした丸顔が自刻像そのものであることも興味深い。
商売繁盛のご縁をいただく木喰さん
木喰仏は、どなたも笑みをたたえておられ、お参りの方々も笑顔になって帰られる。そのせいだろうかご利益にまつわる話がある。
最初は、焼鳥屋に勤めるパート女性。
店の大将から店を閉める話があり、次の仕事を考えていた時だった。3度目のお参り後、店の客が急に増え出した。変ったことといえば木喰さんに会ったぐらいと気づく。寺に来ない時は閑古鳥。帰るとほぼ満席になる。その後はお客が定着して、お蔭さまで店を締めずに済んだという。
実はこの女性、同じ八木町の京都帝釈天に参ったそうである。山道の参道から下りて来た時、麓にある福寿寺の檀家さんに呼び止められた。曰く、「近くの清源寺さんに木喰さんがいてる、もし良ければそちらもお参りしては」と教えられたのがきっかけと話す。もし京都帝釈天に来なければ、そして福寿寺の檀家さんに出会わなければなかったご縁とのこと。「きっと仏さんが彼女を呼び寄せたのでしょう」と、小野崎住職。
この他、若狭で工務店を営む男性、地元の気功師夫婦、車のセールスマンなど、興味深いご利益にまつわる話があり、お参りの折に住職から伺うと良い。