ピックアップ寺院
永谷山 円通寺
四季の彩り・もみじの里|豊かな自然と歴史と仏に出会う
永谷山 円通寺は、南北朝時代の永徳2年(1382年)の正月に、時の将軍足利義満が後円融天皇の勅命を奉じて創建し、今日まで六百余年の歳月を経た古刹である。
室町時代から江戸末期まで、二百余の末寺院と一千石を越える寺領を有し、丹波はもとより但馬、播磨、攝津にかけて君臨していた。
近年円通寺は四季彩の寺としても知られ、春はイトザクラ、夏はアジサイやスイレン、秋は紅葉、冬は雪景色と年間を通じて楽しめる。中でも秋は『丹波紅葉三山』と呼ばれる紅葉の名所の一つで、シーズンともなると大勢の人達で賑わう。
境内上段から中段の緑、赤、黄のグラデーション(11月中旬~下旬)、参道入り口付近の紅いもみじのトンネル(下旬~12月初旬)など、美しいもみじを長く楽しむことができる。参道沿いには安らかに微笑む西国三十三カ所の観音石仏が参拝者を見守る。
円通寺創建伝
当山を開基する際の証文が残されている。この古文書「円通寺文書」によれば、京都賀茂神社禰宜(ねぎ)能棟から円通寺への寄進状があり、『ここは能棟家が代々相伝の地であるが、この度円通寺の敷地として仏陀に寄進したのであるから、以後子孫の中にこの件について乱妨をするような者があれば、それは不孝者であるから公方様の成敗を受けるであろう。』と記されている。
能棟家の式内社を還してまで何故ここに円通寺が建立されたのか。「京都で勢力を得んとすれば、その背後の丹波を確保すべし。」との言があるように、鎌倉時代後期には二人の天皇が並立して王権を争う動乱期を向える。足利尊氏は光明天皇を京都に擁立(北朝)、一方後醍醐天皇は奈良の吉野へ逃れ、南朝(吉野朝廷)を開き両朝は対立した。この事からも足利氏は常々丹波の背後を抑える事は重要として、室町幕府第三代将軍足利義満公によってこの地に円通寺が建立されたのである。
円通寺は三方を山に囲まれ、一方には池を堀り、石垣と土堀をめぐらせたまさに城砦の構え。しかも本堂は、壮大な御殿造りである。
将軍、関白の御子が仏道を極めた聖域
- 初代英仲法俊
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開山の英仲法俊(えいちゅうほうしゅん)は、足利尊氏の第4子。暦王3年(1340年)5月生まれ。幼少時より叡智に富、仏書を好み聖子と称せられた。7歳の時に生母を失い、人生の無常を感じ僧になる志を持つ。天竜寺夢窓国師に就いて得度、ときに11歳。師の遷化によって永澤寺の天真自性に師事、永澤寺開山通玄寂霊禅師の下で、16歳で登壇し、受具し、諱号を法俊とした。
勅願寺として繁栄する山内には常時、二百五十余の修行僧があって、英仲禅師に師礼する者5千人に達したという。衆と暮らし、衆を誡め、山水を愛し、自然と共に生きることを実践した人である。
- 第2世牧翁性欽
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第2世牧翁性欽(ぼくおうしょうきん)は、関白近衛道嗣(このえみちつぐ)の第3子。5歳で乳母妙音に伴われて円通寺に入り、英仲の童子として修行する。やがて乳母妙音は氷上村に庵を建立し牧翁を養育する。妙音のはげましもあり13歳で得度した。師の英仲はその大器を愛して特に提誨を加えた。牧翁は徳望が高く、師を慕う者が多かったと言われる。
応永22年(1416年)師の英仲が亡くなりその法灯を嗣いで円通寺住職となる。10年後、伽藍は後小松天皇自彫の本尊、如意輪観世音菩薩像のみを遺して悉く灰塵となった。しかし牧翁は復興を図り数年で梵宮を竣工したのである。
由緒を物語る二つの家紋
本堂の屋根や寺のあちこちに足利家の家紋「円に二引きの紋」と、近衛家の家紋「近衛牡丹紋」が多く見られる。
これは開山が足利尊氏の第4子英仲法俊、第2代が関白近衛道嗣の第3子牧翁性欽であることに拠る。
征夷大将軍および関白という当時の武門と公家の最高位者の子息が初代、2代住職であったことからも創建当時世の尋常ならざる事情を伺い知ることができる。
明智光秀と円通寺
織田信長の中国攻略に伴う明智光秀の「丹波攻め」により、この地の寺社仏閣は悉く焼き払われた。
この寺にも軍勢が近づいた時、豪氏荻野喜右衛門が光秀の本陣に赴き必死の説得の結果、兵火を免れたと寺伝は記してる。この寺の荘厳さと歴史に、暴挙慎みの令を公布した光秀直筆の禁制と下馬札が当山に遺されている。