宗祖道元禅師は宋から帰朝された後、天福元年(1233)京都深草に日本初の純粋な禅道場として七堂伽藍を建立し、観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)を開創。これが当寺のはじまりである。
道元禅師は34歳から興聖寺在住10年の間、宋より帰って最初に坐禅の要点と所作を説いた「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」をはじめ、修行者の心がまえを説く「学道用心集(がくどうようじんしゅう)」、台所の心得を説く「典座教訓(てんぞきょうくん)」等を執筆され、今日まで伝わる曹洞禅の教理・思想の基礎を創られた。
道元禅師が越前領主波多野義重(はたのよししげ)公の勧めで越前へ赴いた後、興聖寺は応仁の乱(1467)や兵火に遭って衰微したが、寛永10年(1633)淀城主として入国した永井信濃守尚政(ながいなおまさ)公が、領内の霊跡見回りの折り、道元禅師開創になる興聖寺の廃絶を惜しみ両親の菩提のため慶安元年(1648)伏見城の遺構を用いて本堂、開山堂、僧堂、庫院、鐘楼、山門などの諸堂を建立整備し、道元禅師を開山とする仏徳山 興聖寺を現在の地に再建した。本堂に祀る本尊の釈迦牟尼仏は、道元禅師作と伝わる。
さらに尚政公は、深草の興聖寺から数えて第5世にあたる住職として、正保2年(1645)摂津住吉の臨南庵に隠居していた万安英種(ばんなんえいじゅ)に三顧の礼をつくして当寺の中興開山に請じる。万安英種は、ひたすら道元禅を志したことでも広く知られた高僧で、興聖寺住職としてこの地から只管打坐(しかんたざ)の禅風を起こすのに最適な人物であった。中興開山に迎えた万安禅師は、興聖宝林禅寺の歴世を継承して第5世となった。すなわち当寺を「道元禅師初開の禅苑(道場)」とするゆえんである。
興聖寺の復興再建に尽力した尚政公は、伽藍建立後も新たに新田二百石と祠堂銀二十貫を寄進するなど、興聖寺の禅道場としての運営も計った。また広野に円蔵院を建立、のち東運寺を加えて当寺の後見職とした。その後、後水尾天皇の叡聞(えいぶん・天皇がお聞きになること)に達し、東福門院和子の御願いにより、「興聖寺中興縁起」一巻が寄せられ、朝廷からも正法を護り興隆する力添えを受ける。このように淀藩主永井尚政公は、およそ20年にわたって興聖寺の復興・護持に努めたのである。隆盛を続けた興聖寺は、やがて越前永平寺・能登總持寺・加賀大乗寺・肥後大慈寺を併せて「日本曹洞五箇禅林」と称されるようになった。
晩年、万安禅師は「興聖寺永代家訓」15ヵ条を定めた。それは、質素倹約を旨とした生活であるが、興聖寺の禅機は、この家訓によって保たれてきたといってよいだろう。
以来三百数十年、江戸時代には畿内5ヵ国の僧録寺としてまた、曹洞宗の専門道場として幾多の俊秀を輩出し今日に至っている。