甲子御祈祷の寺
当山の縁起によれば、大黒寺は天智天皇4年(665年)正月、甲子(きのえね)の日に、役行者(えん の ぎょうじゃ)が金剛山の頂きで修験しているところに大黒天が五色の雲に乗ってあらわれ、『我は、福を与える神である。縁ある地に我をまつり祈願する道場とせよ』と、告げられた。お告げにあった縁(ゆかり)の地を探しあてた役行者は、その地に小堂を建て自らの姿を水に映して桜の木で彫った大黒天尊像を安置したのが起源とされる。
大黒寺の開山時は、修験道場であった。天平に入り密教伝来以後、空海によって真言宗寺院となる。その後、天正年間には織田信長の大坂進出の際の戦火にみまわれ堂宇は消失するが、当時この地の豪族・庄屋であった大黒豊継(おぐろ とよつぐ)の肝入りで再び寺所の整備がなされ中興再建された。
享保19年(1734年)に、大乗寺29世密山道顕禅師によって改宗され、曹洞宗の寺院となり現在に至っている。
境内には、七福堂・本堂・仏殿・弘法堂・法堂などの伽藍が建ち並ぶ。本堂には役行者が約1350年前、甲子の日に作り祀ったと伝えられる御厨子におさめられた本尊、日本最古の大黒天尊像をはじめ、約千年前に作られたという役行者、弘法大師尊像の他、十二神将像などが安置されている。本尊の大黒天は甲子の日(きのえねのひ=60日ごと)・節分・正月に開帳される。
七福堂には日本最大一木造大黒天が祀られている。お参りの際は、この大黒さまの打ち出の小槌で参拝者の背中をトントンとたたいて「おかじ」をする。
また、山門を入って左手「千年小槌」といわれるお堂には、「なにごともすずなりかなうねがいごと」と書かれ、鈴を鳴らしながら7回廻ってお参りすると、諸願成就が叶う大きな石の打ち出の小槌がある。
この他、境内で一度に七福神巡りのご利益を授かることのできる七福神石像など、数多くの福徳にまつわる施設や石仏像が安置されている。
河内西国巡礼とは、観音菩薩が三十三身に化現して衆生を救うという『観音経』の説にあやかるもので、庶民の巡礼として親しまれる観音霊場巡りである。その起源は平安末期、聖(ひじり)たちによる霊場巡りに始まるとされ、室町時代になって一般の民衆にも広まっていったというのが通説。
身軽に旅ができる今の時代と違って、一般庶民が巡礼に回るようになったのは江戸時代末期から。当山はこの八番札所であり、今も身近な観音霊場として河内の庶民に親しまれている。
法堂(はっとう)に祀る本尊、観世音菩薩立像は鎌倉時代、快慶作と伝わる。