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ピックアップ寺院
仏徳山 興聖宝林禅寺
日本曹洞の五箇禅林
興聖寺の復興再建に尽力した尚政公は、伽藍建立後も新たに新田二百石と祠堂銀二十貫を寄進するなど、興聖寺の禅道場としての運営も計った。また広野に円蔵院を建立、のち東運寺を加えて当寺の後見職とした。その後、後水尾天皇の叡聞(えいぶん・天皇がお聞きになること)に達し、東福門院和子の御願いにより、「興聖寺中興縁起」一巻が寄せられ、朝廷からも正法を護り興隆する力添えを受ける。このように淀藩主永井尚政公は、およそ20年にわたって興聖寺の復興・護持に努めたのである。隆盛を続けた興聖寺は、やがて越前永平寺・能登總持寺・加賀大乗寺・肥後大慈寺を併せて「日本曹洞五箇禅林」と称されるようになった。
晩年、万安禅師は「興聖寺永代家訓」15ヵ条を定めた。それは、質素倹約を旨とした生活であるが、興聖寺の禅機は、この家訓によって保たれてきたといってよいだろう。
以来三百数十年、江戸時代には畿内5ヵ国の僧録寺としてまた、曹洞宗の専門道場として幾多の俊秀を輩出し今日に至っている。
慶安元年(1648)伏見桃山城の遺構より建立。血染の天井、鶯張りの廊下がある。
境内諸堂案内
宇治川沿いの興聖寺入り口には、「曹洞宗高祖道元禅師初開之道場」と刻んだ大きな石柱がある。石の総門をくぐると、一直線につづく坂道「琴坂」が仏徳山・朝日山に向って200メートル延びている。登り詰めると天保年間の改築で、楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置する大きな龍宮造りの山門があり、「曹洞宗興聖寺専門僧堂」の木札が掛かる。山門をくぐると正面には薬医門と本堂を臨むことができ、本堂、書院、方丈、開山堂、天竺殿、僧堂、庫裏、衆寮などの各堂宇を一巡できるように回廊で結ばれている。
天保年間の改築
弘化3年(1846)改築
寛延3年(1750)改築
永興詮慧和尚代になる祖像を安置
慶安元年(1648)建立
元禄15年(1702)改修
まさに威風堂々として歴史を紡ぐ古刹の景観と静寂に包まれた境内は、初開の禅道場として訪れる者を厳粛な気持ちにさせる。
閑寂で清潔な雰囲気を好む尚政公は興聖寺中興再建に際し、お堂からの景観を妨げないよう注意している。特に本堂前の石組の見事な庭や小滝の流下する内庭など、樹木の手入れなどの詳しい注意書を残しているという。こうした遺風は、「枯淡で美しい寺」との定評が現代まで受け継がれているゆえんである。
慶安4年(1651)建立
本堂は伏見挑山城の遺構を用いて建立され、慶長5年(1600)落城の折りの武者たちの血の手形や足跡が残る縁板を天井に配し、廊下は鶯張り。遠く戦乱の世に生きた古人(いにしえびと)に思いを馳せる空間が佇む。
寛延3年(1750)、道元禅師500回大遠忌に塔頭(たっちゅう)の東禅院の大悲殿を移築した、「老梅庵」の名がある開山堂の堂内には竹椅子に座る道元禅師の等身大の木像が安置されており、御真像体内には御霊骨が納められている。
開山堂の左裏手には開山塔が立つ。花崗岩の卵型で再興時に建立されたといわれ、祖塔横には道元禅師の入宋(にっそう)に随行した木下道正庵の石塔も並んでいる。
本堂奥にある天竺殿(てんじくでん)には中興開基の永井尚政公ら一族四体の像などが祀ってある。その手前知祠堂には、『源氏物語』宇治十帖の古跡という手習の杜の観音堂に安置されていた「手習観音」の名で知られ、平安時代の参議で歌人でもある小野篁(おののたかむら)作という木造の聖観音菩薩立像(平安時代後期)を奉安している。
伝道元禅師作
歩くとキュッキュッと鳴る
大書院は大正元年(1912)建立で大正8年6月、貞明皇后様行啓の書院。次書院は明治10年(1887年)2月、英照皇太后、昭憲皇太后両陛下行啓の書院である。
興聖寺の構えを「禅宗様伽藍配置」といい、京都府の文化財指定を受けている。特徴は、山門・法堂(はっとう・説法道場・本堂)が直線上にあり、法堂の左右に、僧堂(坐禅堂)・庫院(台所)を設ける。また山門側には東司(とうす・トイレ)と浴司(よくす・浴室)がある。
開かれた禅寺─興聖寺
京阪電車「宇治駅」そばの宇治川の清流に架かる日本三名橋の一つ、宇治橋から右岸をさかのぼって歩くと、約800メートルで興聖寺門前に出る。駅からの右手は、広々とした宇治川の流れで、対岸には平等院がある。この道は、宇治の観光ポイントの一つで、心やすらぐ絶好の散策ルートである。
興聖寺の入り口からつづく「琴坂」は、カエデ、ヤマブキ、竹などが植えられ、春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉に映える。坂道に沿って流れる谷水の響きが琴の音色に似ていることから命名されたという。
興聖寺には、道元禅師初開の禅道場として現在も全国から修行僧が集まる。午前4時、静まり返った僧堂に振鈴(しんれい・起床の合図)の音が響きわたり暁天坐禅、朝課(ちょうか・朝のお勤め)、回廊掃除・作務と続く修行の一日が始まる。さらに日中諷経、晩課諷経、夜坐(やざ・夜の坐禅)があり、雲水たちはこの一切の思量分別を超越した只管打坐(しかんたざ)を日夜続けている。
また、興聖寺では、一般の方々にもその門戸を開いており日曜参禅会やオプション体験坐禅など、広く曹洞禅を体験してもらえる機会を持っている。10年を越える古参の参禅者はもとより初坐禅の参加者も多く、20名~30名が毎月第1と第3日曜日に集う。初めて坐禅をされる方には、作法を丁寧に指導しているので初心者にも参加しやすい坐禅会だ。
毎年10月第1日曜日には、宇治茶まつり奉賛会の主催で宇治川一帯で「宇治茶まつり」が開催される。興聖寺本堂では「茶壺口切りの儀」が行われ、山門前の茶筅塚では茶筅供養が営まれる。
当寺はアクセスが便利なこともあって古刹の景観と閑寂な庭園を目的に訪れる観光客も多く、都心に近いながらも山門に一歩足を踏み入れると凛とした静寂に包まれた山内は、日頃の喧騒から逃れて訪れる人々に癒しのひとときを与えてくれる。
宇治川の流れ、琴坂の四季、そして歴史に刻まれた名刹を「新宇治川十景」には「琴坂の夕紅葉(興聖寺)」が挙げられ、「琴坂の紅葉ふみ行く老いの杖」という虚子の句も生まれているほどである。
- 略縁起
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宗祖道元禅師は宋から帰朝された後、天福元年(1233)京都深草に日本初の純粋な禅道場として七堂伽藍を建立し、観音導利院興聖宝林禅寺(かんのんどうりいん こうしょうほうりんぜんじ)を開創。これが当寺のはじまりである。
道元禅師は34歳から興聖寺在住10年の間、宋より帰って最初に坐禅の要点と所作を説いた「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」をはじめ、修行者の心がまえを説く「学道用心集(がくどうようじんしゅう)」、台所の心得を説く「典座教訓(てんぞきょうくん)」等を執筆され、今日まで伝わる曹洞禅の教理・思想の基礎を創られた。
道元禅師が越前領主波多野義重(はたのよししげ)公の勧めで越前へ赴いた後、興聖寺は応仁の乱(1467)や兵火に遭って衰微したが、寛永10年(1633)淀城主として入国した永井信濃守尚政(ながいなおまさ)公が、領内の霊跡見回りの折り、道元禅師開創になる興聖寺の廃絶を惜しみ両親の菩提のため慶安元年(1648)伏見城の遺構を用いて本堂、開山堂、僧堂、庫院、鐘楼、山門などの諸堂を建立整備し、道元禅師を開山とする仏徳山 興聖寺を現在の地に再建した。本堂に祀る本尊の釈迦牟尼仏は、道元禅師作と伝わる。
さらに尚政公は、深草の興聖寺から数えて第5世にあたる住職として、正保2年(1645)摂津住吉の臨南庵に隠居していた万安英種(ばんなんえいじゅ)に三顧の礼をつくして当寺の中興開山に請じる。万安英種は、ひたすら道元禅を志したことでも広く知られた高僧で、興聖寺住職としてこの地から只管打坐(しかんたざ)の禅風を起こすのに最適な人物であった。中興開山に迎えた万安禅師は、興聖宝林禅寺の歴世を継承して第5世となった。すなわち当寺を「道元禅師初開の禅苑(道場)」とするゆえんである。
- 宇治茶まつり/10月第1日曜日
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茶どころ宇治の秋を古式ゆかしく彩る宇治茶まつりが毎年10月第1日曜日に宇治川畔一帯で「宇治茶まつり」が繰り広げられる。茶席・点心・お茶のみコンクール等、宇治茶まつり奉賛会主催で実施されている。
茶の実を我が国に招来した栄西禅師、茶園を拓いた朋恵上人、わび茶の完成者・茶聖の千利休の3恩人への報恩感謝と宇治茶振興を願って開催されている。
主会場となる興聖寺では、午前10時から茶壷口切りの儀式等の式典が執り行われる。式典後茶道関係者が感謝と精進の気持ちを込めて実施している茶筅塚供養(午前11時30分~)も当寺門前で行われる。興聖寺では協賛茶席の本席を、大書院と次書院で開催している。
詳しくは下記まで。
- 体験坐禅と堂内拝観
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当寺では、オプションで坐禅作法の説明と坐禅体験(約30分)プラス堂内拝観がセットでできる。歴史ボランティアガイドを通しての申込、あるいは興聖寺でも直接受付している。時間は午前9時~午後5時まで、午後4時30分受付終了。
※尚、諸事により受入れできない場合もあり、事前に確認が必要。平成25年 興聖寺の行事 護持会総会 5月16日 お盆参り 8月12日~14日 開山忌 9月26日~29日 茶まつり 10月第1日曜日 摂心 12月1日~4日 ※興聖寺では除夜の鐘を除き、年末年始(12/30~1/3)、上記期間は、各行事とも中止となります。あらかじめご確認ください。
堂内拝観等、お申込は山門を入って右手の総受処にお越しください