講演録

よりかからずに生きる 曹洞宗近畿管区教化センター統監・幤 道紀

如何なるか生死涅槃!

それでは、みなさまどうぞ姿勢を整えてください。

これから1時間以上、坐禅の時間があると思います。普通の椅子で長時間にわたって坐禅いたしますと疲労が出てまいります。少し疲れたときにはリラックスしていただいて結構です。

それから坐蒲(ざふ)を使って坐禅をしていらっしゃる方。やはり足が痛くなったり痺れがきますが、その時動くとかえって苦痛が耐えがたくなります。辛抱しているとやがて苦痛を感じなくなりますから努力してみてください。やむを得ない時は、ご自由にどうぞ。

話のときにはどうぞゆったりと聴いていただいたら結構だと思います。坐禅をなさる方は続けてなさってください。それでは少しきちっといたしましょう。

−会場 しずかに坐る−
−沈黙を破り青年僧が問いを発する−
(青年僧A) 「統監老師に問う。如何なるか、仏法!」
(幤)    「心これ仏にあらず 智はこれ法にあらず」
(青年僧B) 「ならばこれ、如何なるかこれ生死涅槃」
(幤)    「生死涅槃、二途にあらず。至道無難、ただ揀択を嫌う」
(青年僧C) 「如何なるかこれ本来の面目」
(幤)    「東風吹き起こす老梅の華、華開いて世界興る」

どうぞ、お楽になさりたい方は、なさっていただいて結構でございます。

ただいま3人の方が、仏法について問いを発しまして、私がそれに対して応答をいたしました。一般には禅問答と申します。私ども宗旨を曹洞宗と申します。その他、禅には臨済禅、黄檗禅というものがございますが、いずれも師匠と弟子の関係を非常に重んじます。

禅問答

職人さんや、伝統芸能、そのような世界で技能を伝えるのに、お師匠さんとお弟子さんの関係が非常に密であって、そのなかで伝統的な芸能や技能が伝授・継承されていく。そういうことがあるわけですが、特に禅の仏法の世界におきましては、師匠と弟子、弟子と師匠の間柄というのは非常に親密なものがございます。

そういうなかで、問答というのはどういうことかと申しますと、もちろん弟子が師匠に仏法について問う。それに対して師匠が応答する。ときには師匠が弟子の修行の状況を試すと申しますか、見届けるために、師匠の側から問いを発しまして、弟子がそれに応答したのに対して師匠が、その弟子の境涯や修行の状況を見定める。ときにはその弟子の(必ずしも言葉で答えるとは限らないのですが)その弟子の応答に対して、師匠がそれを認めることもあれば、許さない場合もあります。
そういう、師匠と弟子の間で行われる問答。あるいはその他、仏法の深奥なる究極のところを、お互いにやりとりする。要するに、仏の世界での対話と申しますか、そういう問答もございます。

ただいま、最初に問いかけました問答は、仏法とはどのようなものであるか、そういう問いでございました。
2番目には、「如何なるかこれ生死涅槃」。「しょうじ」というのは「生死」と書きます。「涅槃」。
それから3つ目は、「本来の面目とは何か」という趣旨の問いかけが、私になされました。
答えは、そのときには、たった1つということもあるわけですが、そのたった1つのことを表現するのに、無数の言葉というものがございます。禅関係の文献というのは大変多いんですね。

禅はだいたい
「教外別伝(きょうげべつでん) 不立文字(ふりゅうもんじ)」
と言いまして、あまり言葉や書かれたものに頼らないというのが表向きなのですが、実際には師匠と弟子の関係が無数にあるために、そこで吐かれる言葉が、また無数にあるということになります。

自分のはからいを越えた縁起の世界

今日のお話のテーマは、「よりかからずに生きる」ということでございますので、そのあたりから話を進めながら、先ほどの問答のことなどについても触れてまいりたいと思います。

よりかからずに生きる。
私たちは普段は、いろいろなことによりかかって生きております。仏法では「縁起(えんぎ)」ということを申します。いろいろな「因」と「縁」によって、私たちは生きていると共に、生かされているという在り様を「縁起」と申します

この「縁起」の世界というのは、ほんとうは私ごとの挟めない世界なのですね。
たとえばみなさん、いろいろな縁によって、この世に誕生なされました。ただその誕生されたときの自己というものを、知っていらっしゃる方は、いらっしゃらないと思います。何年何月何日に私は生まれたと、聞かされているだけなんですよ。自ら生まれたことを知っている人はいないですね。
つまり縁によって生まれてきた。自分のはからいを離れたところで私は生まれてきた。
たとえば病気になるときも、なりたいと思ってなる人もいなければ、なりたくないと思ってもなるわけです。つまり、そういうことも自己のはからいを超えているわけですね。

先ほど、「生死涅槃(しょうじねはん)」と申しました。
「生死」というのは生き死に。私たちのこの身体の細胞というのは、50兆ほどの細胞から成り立っているそうです。しかも毎日、3000億の細胞が死滅して行きます。そして新たに、新しい細胞が生まれております。神経細胞、あるいは筋肉細胞の一部は、生まれたときのまま、亡くなるまで成熟はしていき、死滅はしないと言われておりますが、ほとんどの細胞は瞬間、瞬間に生滅を繰り返している。

仏教では「刹那無常(せつなむじょう)」ということを申します。つまり、刹那、刹那に、私たちは生き死を繰り返している。吐いた息が次の瞬間、吸えなければ、私たちは死ぬわけです。吸った息が吐けなければ。私はある人の臨終の様子をつぶさに見守っておりましたが、吸った息が最後には吐くことはなく、それが死であったわけですね。

そういうふうに、私たちの命というものは「刹那無常」である。これも私たちのはからいを超えた「縁起」の世界なのです。
「縁起」というのは、私たちはよく、縁起がいいとか、悪いとか申しますが、私ごとを差し挟めない「縁起」の世界に対して、私にとって都合がいいか、悪いかということを思っているだけなのですね。
明日を迎えられるかどうか。今日ここでみなさまとお会いしていますけれど、私のほうがみなさまに、おさらばするかも知れないし、みなさまのどなたかが、明日には、明日という日を迎えられないという可能性は常にあります。明日ばかりではないですね。1時間後、30分後、そういうことですね。

欲とは執着のことである

仏教では、5つの欲とか6つの欲ということを申します。
たとえば五欲などというのは、財産欲。あるいは色欲、これは男女間の愛執ですね、愛によるとらわれ。それから飲食欲と申しまして、飲み物や食べ物に対する欲。あるいは名誉欲。あるいは、いつまでも寝ていたい、睡眠欲というもの。この五つのことを仏教では五欲と申しますし、五官や意識の対象も欲望の対象として把えるならば欲になります。

欲というのは何かと言うと、要するに、とらわれなのですね。欲のことを妄執、愛執、執著(しゅうじゃく)、そういうふうな言い方ができるかと思いますが、私たちは、その様々なとらわれのなかで生きている。それにかえって生き甲斐を感じている方もおられるでしょう。しかし、欲望は無限ではありますが、欲望を叶えさせる客観情勢というのは有限です。そこでいろいろな精神的なトラブルが起こるわけですね。

自己が主人公になる

中国の唐の時代、8世紀の中ごろですが、瑞巌師彦(ずいがんしげん)和尚という方がおられました。
この和尚さんは、山の上の大きな石の上で毎日、坐禅をする。起居は洞穴のなかでするという、修行にひたすら励んだ方です。

この方が毎朝、起きますと、「おい、瑞巌よ、瑞巌よ!」と自分に呼びかけ、さらに「主人公、主人公」と呼びかける。
それに対して、「はい、はい」と自分で答えるわけです。
自分で「主人公」と呼びかけておいて、自分で「はい、はい」と答える。
さらに、「おまえは目を覚ましているか」と。「はい、はい」と、また答える。
また、「他時、異日、人の瞞(まん)を受くることなかれ」と。

要するに、いつの日か、人に騙されないように、しっかりと目を見開いておれ。そういって毎日、毎朝、自らに呼びかけていたという、そういう故事があります。
毎日、自らに「主人公、主人公」と呼びかける。「目を覚ましているか」、「人に惑わされることなきように、己をしっかりと保っておれ」と。この「主人公」ということですね。

よりかかるというのは、要するに、自己が主人公でないのですね。欲のほうが主人公ですね。先ほどの例で言うと、五欲が主人公で、自分は五欲の後に従うことになります。

欲望は種類も無限ですし、量も果てがありません。要するに、主人公としての生き方は、欲を追求するなかからは生まれてこない。

禅門では、この本来の主人公のことを、先ほど問いに出ておりましたが、本来の面目(ほんらいのめんもく)、そういう言い方でも言います。本来の面目というのは、本来の私とは何か、そういう問いかけです。あるいは、「父母から生まれる以前の自己」。また、「物の兆しのあらわれる以前の自己」。あるいは、「天と地の兆しが、いまだ天地がまだ分かれざる以前の自己」。そういう言い方で自分のほんとうの在り様というものを捉えようといたします。
坐禅とは、要するに、そういう本来の己に立ち返る。先ほど坐禅の説明のところで申しましたが、それが私どもの仏道を求める在り方であるわけです。

瑞巌師彦は自分に対して主人公と呼びかけましたが、普通、主人公と申しますと、たとえば映画や演劇や小説や、いろいろな場面で、自分が他に対して、自分が中心人物になることが主人公ですが、仏道で言うところの主人公というのは、自己が自己になりきることが主人公であると申します。

仏道を歩むとは

先ほども、私たちは、その生まれを知らないと申しました。
また、明日の自己をも知らない。昨日の自分というのは、もうないんですよ。1時間前の自分というものは、もうここにはありません。1時間後の自分もここには存在していない。いま私たちがあるのは、ここにいる私なのです。
過去は記憶の中にしかない。未来は想像の中にしかない。私どもが、「時」というものを考えると、この「時」は、今をおいて他にはないということです。
私たちの自己というのは、ほんとうは実体を持たないんですね。「無我(むが)」ということを申しますが、私という実体的存在はない。

道元禅師は、仏道や仏法という言葉をよく使われます。
仏道というのは、仏の歩まれた道であり、仏のさとりでもあります。あるいは、仏法というのは、仏の世界、仏の説かれた教えということです。

普通、仏教とよく言いますが、仏教というと、どうしても教え。教えというと、どうしても言葉が表面に出てまいりまして、教える者と教えられる者、説く者と説かれる者というふうに取られやすいのですが、仏道と申しますと、仏の歩まれる道、歩まれた道、非常に実践的な意味合いが強くなります。

仏道を学ぶには、これはやはり仏様にならなければ、仏道というのは歩めないのです。
仏道というのは、仏が歩むから仏道。凡夫が歩めば凡夫の道なのです。

自己が自己になる坐禅

今日は最初に、初めて坐禅をなさった方もいらっしゃいますが、私どもの日本の曹洞宗の祖である道元禅師は、たとえば、「最初の坐禅は最初の坐仏である」と申されました。

一番初めに行うところの坐禅が、最初の仏様の現れ出た姿であるということです。
坐禅の説明のときにも申しましたように、私たちの坐禅というのは、仏の形と、仏の呼吸と、仏の心を持って修行するところの坐禅である
この坐禅は、悟りをも求めません。なぜなら、元々悟りの世界の上において行ずる坐禅だからです。そのためには、坐禅のときの心の持ちようとして、自らのはらかいを捨てること。雑念を追わないこと。そういうことを申しましたが、そのことによって自己が自己となる。
つまり、欲とか執着とかといったものを捨てる

執着や欲の元は何から起こるかと申しますと、仏教では「分別(ふんべつ)」と申します。たとえば「般若経」には、「無分別」という言葉が無数に出てまいります。

一般社会では、「あの人は無分別な人だ」と言うと、あまりいい意味には言わないですね。反対に、「あの人はなかなか分別のある人だ」と言うと、ひとかどの見識を持ったというか、常識を備えた人のように受け取ります。

仏道では、まるで反対です。
先ほどの、愛著とか執著とか欲、それの元になるのは「分別」、あるいは「無明(むみょう)」と申しますが、「分別」というのは、あれこれ自分のはからいごとを持ち込むことなんですね。
「分別」には必ず、「私」、「我」という心が付いて回っております。「他」に対して「自我」を立てる。その上で「分別」をする。
「我」と「他」という関係のなかで、常に私たちは「分別」を繰り返し、その「分別」の上で、いろいろなとらわれの心を起こしたり、愛着を起こしたり。
そのことによって本来の自己が振り回されて行く…。
その振り回されている「分別」を離れること、これが坐禅の世界であるということなのですね。

真実の自分というのは、生まれたときも分からない自分が、頭で考えて自分が分かるわけがないんですよ。絶対にほんとうの自己というのは、これは理性とか観念では捉え得ないものなんです、ほんとうの私。捉えようとする私と、捉えられる私。そうすると自己が二つに分かれてしまいます。
その二つに分かれる以前の自己に立ち返ることが、私たちの坐禅である。そのためには、はからい、つまり「分別」を捨てなければいけない。

自分と他とはひとつである

先ほど、最初の問答にございました。
「如何なるかこれ仏法」
それに対して私は、
「心は仏にあらず」
心は法にあらずと言っても結構ですが、「心は仏にあらず、智は法にあらず」、あるいは「道にあらず」。どちらでも結構です。

私たちは、自分と自分以外の世界というふうに分けております。
自分と他人、自分と世界、主観と客観。こういうふうに常に2つに(二元論と申しますが)二元に分けている。そのなかで自我を立てて、そして何とかその二元の間で、自分を中心に物事を処理したり、考えたり、執着したりして生きているわけですね。
その二元の生まれる以前に立ち返りますと、たとえば私はいま、目にみなさまが映っております。つまり私の目は、みなさまと一つなんですね。みなさまというときには、私は目を意識しておりません。つまり私の眼はみなさまなのです。みなさまが、そこに坐っていらっしゃるのは、足によって坐っているわけですが、足は床を踏んでおります。つまり、足と床は一つなんです。実際には私たちは、そういう生き方をしております。
心だけの世界というのは、ないんですね。心と言うときには、この世界も心なのです。仏教ではそういう捉え方をします。自分と他とは本来一つである。「一如(いちにょ)」と言い方をしますね。「一如」のところに二を持ち込むのが人間の「分別」ということです。

親子関係がうまく行っているときには、親子という意識すらないと思うんですね。夫婦という意識もないと思うんです。夫婦一つ、親子一つ。何かしっくり行かなくなると、妻と夫に分かれて行くんですね。
ですから私たちが坐禅をするということは、私が生きている宇宙も一緒に坐禅しているということなのです。私たちは宇宙と共なる坐禅をしている。私がしているのではない、共にしているのです
そこにさらに「分別」を持ち込んで、悟りを求めたり、おれは迷っていると反省したり、そうする必要は毛頭ありません。ただ心をオープンにして、何ものにもとらわれないで、山がどっしりと根を下ろすように坐ること。
それが本来の自己に立ち返ること。何ものにも、鼻面を引き回されて生きない。これが先ほどの瑞巌師彦の言った「主人公」という意味なんですね。

「主人公」というのは、これは他に対して言う言葉ではなくて、自らが自らであることに目覚めること。これがほんとうの「主人公」になるという意味でございます。

あと、先ほどの、「本来の面目」という問いに対しまして、私が答えた言葉がございますが、お約束の時間がまいりましたので、今日の禅話は一応、ここで区切らせていただきます。
要するに、よりかからずに生きる、最も大切なのは、自らが自らに立ち返る。そのためには、この「只管打坐(しかんたざ)」。「只管打坐」というのは、先ほど申しましたように、何ものをも求めないということなのです。ただ、仏様の坐禅を自らが行ずること。それが「只管打坐」の本意です。

質疑応答

いろいろ質問を書いていただいているようでございます。
いま初めて質問を拝見しますので、私に答える力量があるかどうか、分かりませんが。いまから15分ほど時間をいただいておりますので、少しお答えいたします。
なぜ坐禅をするのですか?
道元禅師が、なぜ坐禅をするかについて、簡潔に。それが仏行だからとおっしゃっております。また、仏道の正門であると説かれています。裏門と正門がありますよね、要するに仏道の正門が坐禅だと。お釈迦さまも坐禅によって悟りを開かれました。私どもの坐禅は、そのお釈迦さまの坐禅を行ずる、そういう坐禅です。
私たちは、坐禅ばかりをしているわけにはいきません。ただそういう、鼻面を引き回されるような生き方をしないということが、私たちの日常のなかに生きて行かなければ、ほんとうはいけないわけです。「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」、動いているときには動く。そのときには、坐っていることは忘れてください。寝るときには寝る。「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」。そのとき、そのときに本来の自己に立ち返ることが、これが坐禅の真義、真意でございます。
要するに、坐禅を組むのは、坐禅が仏行であるから。仏法の正門であるから。歴代の祖師方は、すべて坐禅によって悟りを得てこられたわけです。そういうことでございます。
一般的に最初はどの程度の時間坐ればいいですか?
坐禅の長さの時間ですが、この坐禅というのはほんとうは、継続して続けることが大事なのです。まとめて十時間やったから、一生しなくていいというものではないんです。ご飯をいただくのと同じように、できれば毎日、わずかでも自己に立ち返ることが重要です。
坐禅をすると、人間何もしないでいると、何もしないでと言うとおかしいのですが、時間を長く感じますでしょう。三分でも結構、遊び惚けているときに比べると長く感じます。ですから、それだけ貴重な時間ですから、10分でも20分でも結構です。ただし、たゆみなく続けることが肝要です。
昔は、お線香の燃える時間で、坐禅の時間を決めておりました。一本のお線香の燃える時間を一チュウ(※火編に主という漢字)といいますが、だいたい40分から45分ぐらいです。
いろいろ時間の長短はあっていいと思います。基本的には40分から45分です。ただし、たとえば朝起きてから、お仏壇とか、どこか静かなところで10分間続ける。そういうことができれば、お続けいただきたいと思います。
上アゴに舌を当てていても、なお唾液が出ます。飲み込んでもいいのでしょうか?
外へ吐かれても困りますので、飲み込んでください。どうぞ遠慮なく。
鼻で呼吸ができないとき、坐禅はできるのですか?
いろいろいま、鼻炎とか、そういうことで鼻の詰まることもあるかと思います。
そのときは、もう口でしていただいて結構でございます。そのあたりは臨機応変でよろしいかと存じます。
呼吸のやり方が、いまいち分かりません。
これは、詳しくお話しますと切りがないのですが。要するに、基本的には腹式呼吸ということです。腹式呼吸いたしますと、肺の活動も普段よりはよほど活発になります。ですから血流が盛んになり、それによって新陳代謝が活発になります。私どもは丹田呼吸と申しますが。もちろん空気が丹田まで行くわけはないのですが、そういう腹式呼吸を心掛けてください。これは精神的にもよい影響を与えます。
心とは一体何でしょうか。どこにあるのでしょうか。よく分かりません。
この、分かりませんというのが正解です。ただ心というのは、たとえば道元禅師の言葉で申しますと、「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」と。そのへんにある壁とか、瓦、石ころ、それが心だとおっしゃっています。心というのは必ずしも肉体のどこかに閉じ込められたものが心ではなくて、宇宙が心なのです。先ほどご説明しましたね。心だけの世界というのは、ないですよ。常に何か対象がありますから、対象と一つなのですね。一つのところを分けて、心と心の世界というふうに分けますが、本来、心と心の世界は一つです。肉体のなかにあるものだけが心ではございません。
禅の言葉に、「盡十方界是眞實人體」、そういう言葉がございます。「盡十方界(じんじっぽうかい)」というのは宇宙ということです。この宇宙すべてが真実の姿に満ち溢れている。そういう言葉です。人間はそれに気付いていないということですね。
『どこにあるのでしょうか?』
どこにでもあると申せます。ないと言えば、どこにもありません。これはもう少し時間をいただければ、もっとお話できますが、そういうことです。
坐禅というのは、自分と対面することと、以前お聴かせいただきました。
雑念が多くて自分のうちにいる自分が始終、話しかけてくるような気がします。坐禅をやり続けることで、この自分も静かになって行くのでしょうか?
坐禅を続けるためには、どこか坐禅会とかね、指導者のもとで続けると、ほんとうはいいんですね。
そういう中で今日のこの催しは、「禅をきく会」となっています。禅は聴くだけではダメなんです。自らやることが大事です。そのなかで、自ら仏法について考えるということも必要ですが、この方は雑念におそらくとらわれていらっしゃるんですね。雑念が起こったら、気になってしようがないんでしょうね。放っとけば消えますよ。雑念には根がありません。
坐禅を組む方向というのはありますか?東西南北の方向です。
方角にはこだわりません。ただ私どもの坐禅は基本的には、「面壁(めんぺき)」と申します。壁に向かいます。今日は対面でしておりますが、お家でしたら壁や襖に向かっていたします。あまり光が。今日の私のように、こういうふうにライトを当てられると、ほんとうは最もよくない条件です。だから陽が自分に当たらないような、少し暗いほうがいいですね。あまり明る過ぎないように、暗過ぎないように。そういうところがいいかと思います。
坐禅と瞑想は違うのですか?
まったく違います。瞑想というのは、目を閉じて精神を何かに集中させようとします。英語では「Zen meditation」と言いまして、悟りのことを「meditation」という、瞑想という言葉を使って翻訳しますが、坐禅は瞑想ではございません。眼を開いており、何ものにも集中しません。
仏教のなかには、そういう、何かに集中して坐る坐禅もあります。
でも私どもの坐禅は、先ほども申しましたように、何ものにも集中しない。とらわれない。集中ということは、とらわれていることですね。瞑想とはまったく違います。
「坐は仏行なり」参禅は、禅に参ずるということは坐禅をすることである。そういう道元禅師のお言葉をもちまして、時間もまいりましたようでございますので、今日はこれにて終わらせていただきます。ご静聴、誠にありがとうございました。