道元禅師は、鎌倉時代の1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に京都でお生まれになりました。
諸説ありますが、父は内大臣久我通親(こがみちちか)、母は摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)であるといわれています。
幼少より聡明さを発揮され9歳で『倶舎論』を読まれたとの逸話が残っています。
道元禅師は3歳の時に父を亡くし、8歳で母の死にあうという悲しい体験をとおして世の無常を強く感じられ、その心を仏の道へと傾けられたのでした。
道元禅師は、鎌倉時代の1200年(正治2年)1月26日(陰暦では1月2日)に京都でお生まれになりました。
諸説ありますが、父は内大臣久我通親(こがみちちか)、母は摂政関白藤原元房の女(むすめ)伊子(いし)であるといわれています。
幼少より聡明さを発揮され9歳で『倶舎論』を読まれたとの逸話が残っています。
道元禅師は3歳の時に父を亡くし、8歳で母の死にあうという悲しい体験をとおして世の無常を強く感じられ、その心を仏の道へと傾けられたのでした。
1213年4月9日、14歳の禅師は比叡山の座主公円僧正について剃髪し、出家得度されます。比叡山では天台教学を中心に学ばれましたが、経文にある「本来本法性・天然自性身」という文言に大きな疑問をいだかれます。
その解決のために園城寺(三井寺)の公胤僧正を訪ね、そのすすめにより建仁寺へ参じられた道元禅師は、栄西禅師の高弟である明全和尚に師事されます。
1223年、24歳のとき、求道の志をさらに強くした道元禅師は明全和尚とともに海をわたり、宋(中国)の地を踏まれます。
正師を求め諸山をたずね、ついに天童山にて如浄(にょじょう)禅師とめぐりあわれます。道元禅師は如浄禅師を生涯の師として仰ぎ、坐禅修行に励まれます。そして、ついには悟りの境地を認められ印可証明をうけ、お釈迦さまより脈々とつづく正伝の仏法を受け継がれたのでした。
1227年(安貞元)年、28歳の道元禅師は5年におよぶ修行を終え、日本に帰国されます。後年、中国で体得されたことを『眼横鼻直』『空手還郷』という言葉であらわされ、「ありのままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」とお示しです。
帰国後直ちに、坐禅の心がまえや作法などについて書かれた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、その後『正法眼蔵(しょぼうげんぞう)』の最初の巻である『弁道話』を著されます。
1233年34歳のときに、京都の深草に興聖寺を開き、本格的な僧堂(坐禅堂)を建立し坐禅修行をつづけられるとともに、たくさんの人に坐禅をすすめられました。
次第に名声も高まり、弟子の数も増えたのですが、僧団が大きくなるなるにつれて興聖寺への外圧が加わるようになります。また如浄禅師の「国王大臣に近づかず、深山幽谷にて仏の道を行じ、仏の弟子を育てなさい」との教えもあり、波多野義重のすすめで越前(福井県)の山中に移り、傘松峰大仏寺を建立されます。この寺はのちに、吉祥山永平寺と改称されました。
1247年(宝治元年)、執権北条時頼の特請をうけ、波多野義重の頼みもあり、鎌倉に赴き、半年という短期間ではありましたが武士をはじめとする多くの人々を教化されました。
1252年(建長4年)、夏頃から体調を崩され、翌年には永平寺を懐奘(えじょう)禅師にゆずられます。8月には療養のため京都の俗弟子、覚念の邸宅へ行かれましたが、治療の甲斐なく1253年9月29日(陰暦8月28日)に54歳でその生涯をとじられました。