禅のお話
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ぶじ
「無事是貴人(ぶじこれきにん)」という禅語があります。
どうか無事でいて欲しいと子どもを学校へ送り出す親の心には、見守ってあげたい気持ちが込められます。本当の幸せの極みというのは、何事も起きないことであって、日常が平凡に過ぎていくことですね。
しかし、禅語としての「無事是貴人」の意味は少々違います。無事とは、平穏無事の「無事」ではなく、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。一歩一歩着実に歩む心をいいます。貴人(きにん)とは貴ぶべき人、すなわち仏であり、道を達成した人を意味します。
私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが修行であり、仏になることであります。
先日、お誘いを頂いて仏像彫刻教室の発表会に出かけました。微笑んでいるお顔、ふくよかなお顔、中には寂しげなお顔など。そして御本尊として拝みたくなる素晴らしいできばえの仏像もありました。
主催者の仏師はこう仰います。
「仏像彫刻に限らず何でもそうなんでしょうが、彫る人の精神性といいますか内面が出ますから、いかに心の内側を高めるかが大切です。仏像を彫刻するにあたり、形を追求することは当然必要なことなのですが、形にとらわれすぎては、肝心のありがたさ、尊さが出て参りません」
「無事是貴人」が指し示すように、道の完成を他に求めず、一歩一歩着実に、心の内面を磨くようにするとおのずからその成果があらわれてくる、ということなのでしょう。
仏師はこう付け加えました。
「本当に大勢の人に何十年も何百年も拝まれるような仏像を彫れたと思うことは稀です。彫ると云うより、お出まし頂くのをお迎えする境地ですね」
仏像を彫る人たちだけでなく、私たちの一生は、仏になる資質、仏性を発見し、お出まし頂くように生きることが「無事是貴人」の修行に繋がっていくのだと感じた次第です。
会場を後にして、なにか暖かな気持ちに包まれました。最初は仏像の出来不出来に心を奪われておりましたが、このような美しいものを伝えたいとする人の心を、受け取らせていただけた事を何より嬉しく思いました。