過去の法話

幸せかどうかきかないで

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

マラソンを趣味としている友人がいます。いろいろな地方の大会に出かけては走っているのですが、毎回毎回、走り出してすぐ「ああ、何でこんなつらいことにわざわざ申しこんでしまったんだろう」と、後悔するというのです。

つらい、もういやだ、ずっとそんなことばかり考えながら後悔づくめで3時間ほどを走るのですが、走り終えると満足感が生まれてきて、何日かたつと「今度はあそこの大会で走ろう」などと考えるようになるのだそうです。

思わずおかしみを覚える話ですが、確かにそういう気持ちはよくわかるような気がします。

私たちはいつも幸せでありたいと願いますし、つらいことはできるだけ遠ざけたいと思うものです。煎じ詰めれば、人間はそうやって一生を送っているのかも知れません。

けれども、このマラソンの例でもわかるように、何が幸せか、というのは案外その最中にはわからないことが多いのではないでしょうか。
とてもつらいことでも、何年もたってみればものすごく得がたい貴重な経験だった、あの時は幸せだったなあ、と身にしみて感じられる時がくるかも知れません。逆に、今はとても幸せに感じていても、あとから思えば大したことはなかった、という場合もあるでしょう。

今思う幸せと、後から思う幸せというのは実は一致しないものなのです。随分昔につけていた日記をふと開いた時など、「こんなことであの頃の自分は悩んでいたのか」とか、「この時は幸せだったな」などとしみじみ感じた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。ですから、今の自分が幸せなのかどうか、今いくら頑張って考えてみてもあまり意味のあることではありません。

よく諸行無常と言われます。これは、ものごとが移り変わって幸せや不幸せが入れ替わっていくことを指す…のではありません。むしろ、幸せかどうかを判断するこの私自身が時間とともに変わっていく存在なのだ、ということをいう言葉です。

私たちは変わらない自分を抱えているつもりで、実は丸ごと無常の身を生きているのですから、そんな私たちにとって今幸せかどうかを知ることは本当は荷が重過ぎのです。

道元禅師様は、だからこそ私たちは一日一日を大事に、今を今なりに懸命に努めることが大事なのだとお示しになっています。幸せかどうかという価値判断は移ろうことがあっても、できる限りのことを行ったという事実だけは変わることなく私たちの血肉となるからです。今自分は幸せかどうか、そう自問するのは少し後回しにしてみませんか。

2005/01/26