今日、テーマとして掲げました、「私がわたしになる」というのも、その関連でございます。たとえば、お釈迦さまが菩提樹のもとで悟りを開かれた、お釈迦さまは何を悟られたのか。
お釈迦さまが悟られたのは「縁起の理法」であったとされています。 普通、私どもは「縁起」というと、縁起がいいとか、縁起が悪いとか。自分にとって巡り合わせがいいことについては、縁起がいい。そうでなければ、縁起が悪いというふうに、人間中心の考え方で縁起を判断いたします。
いまからおよそ、2500年ほど前、インドにお釈迦さまが出現され、35歳のときに、菩提樹のもとでお悟りを開かれました。私たちが行ずる坐禅というのは、ブッダガヤの菩提樹のもとで成就されたお釈迦さまの坐禅をそのままわが身心に表すという、そういう坐禅でございます。
お釈迦さまが残された言葉が南方仏教に伝わっています『スッタ・ニパータ』、訳しますと「経集」。短編のお経を集めた経典集ですが、パーリ語で書かれたものです。それが翻訳されまして岩波文庫から出ております。そのなかにこういう言葉がございまして、二つほどご紹介いたします。
「私には子がある。私には財があると思って、愚かなものは悩む。しかし、すでに自己が自分のものではない。まして、子がどうして自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」
これは、『スッタ・ニパータ』の62番に出てくる詩偈でございます。詩のかたちで説かれています。
もうひとつ、ご紹介いたします。
「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして自分の主であろうか。
自己をよく整えたならば、得難き主を得る」
この言葉は、お釈迦さまが在世のときに説かれた教えの一つとして伝承されてきた言葉でございます。要するに、子どもや財産や、そのほか諸々のものに、私たちは価値観を見いだして、そのためにそれを追いかけ、結局は、人生が、その何かを追い求めた結果の集成で終わってしまう。それでは本当に自己が自己の主であると言えるのかどうか。お釈迦さまが問いかけていらっしゃるのは、そういうことでございます。
今日、テーマとして掲げました、「私がわたしになる」というのも、その関連でございます。たとえば、お釈迦さまが菩提樹のもとで悟りを開かれた、お釈迦さまは何を悟られたのか。
お釈迦さまが悟られたのは「縁起の理法」であったとされています。 普通、私どもは「縁起」というと、縁起がいいとか、縁起が悪いとか。自分にとって巡り合わせがいいことについては、縁起がいい。そうでなければ、縁起が悪いというふうに、人間中心の考え方で縁起を判断いたします。
たとえば科学の世界で、「万有引力の法則」というのがございます。すべての物質は引力の法則に従って存在しており、地球上では重力ということになります。引力の法則については、これは縁起のいい引力だ、これは自分に都合の悪い引力だということは、おそらくみなさん、どなたもおっしゃらないだろうと思います。
縁起の理法というのは、ちょうど万有引力の法則になぞられるような理法でございます。人間の力では、いかんともしがたい理法。縁起というのは、依りて起こる、依りてあるということ。いろいろな原因や条件が依り集まることによって、そこにあらゆるものがあるということです。
縁起ということがある以上、「縁滅」ということもございます。依りて起こるということがあれば、依りて滅するということも当然あるわけです。いのちの誕生は大変めでたい。しかし、縁起の理法に従っていのちが滅する。縁起が悪いといいますね。ほんとうは、生まれるのも、死ぬのも、縁起の理法のうえでのことであって、私たち人間のはからいでは、いかんともしがたい。
お釈迦さまの言葉のなかに、「自己が自己の主でない」という言葉がございました。要するに、自分が自分の主でないと。みなさん、自分が自分の主だと思うことがおそらく多いと思うのです。
でも、坐禅をしてどうでしたか。雑念を起こさないでおこうと思っても、おそらく思いどおりに行った人はひとりもいらっしゃらないと思います。つまり、自分の心さえ、みなさんはコントロールできないのです。
もちろん、自分の肉体もコントロールできません。だから、歳はとりたくないけれども、歳はとっていく。皺は増やしたくないけど、自然におのずから増えていく。それは、理法のもとに私たちは生きているからなのです。
先ほどの質問のなかで、こういう質問がございました。「生きていると、生かされていることの違いはなんでしょうか」ということですね。
みなさん、ほんとうは生きていると思っていらっしゃるでしょうけれども、今夜布団のなかに入るときに、おそらくみなさん、あしたも目が覚めると思っていらっしゃるでしょう。そうやって一日、一日、百歳過ぎても、やっぱりそう思って生きているかも知れません。しかし心臓が止まれば、私たちの意思とはかかわりなく死ぬんですね。縁起・縁滅というのは、理法のもとに私たちは、生きていると思っているけれども、自分で心臓を動かしている人はいないのです。
つまり、生きていると思っているのは錯覚に過ぎないですね。生かされているのですよ。理法のなかで生かされているということです。
大乗仏教の初期の経典のなかに、『般若経典群』というのがあります。たくさんの『般若経』があります。『般若心経』がポピュラーですので、みなさんもご存じかと思いますけれども、そのほか、600巻にものぼる、『般若経典群』というのがあります。 『般若心経』はそのなかには入っておりません。
『般若経』も時代を追って編集されていくわけですが、初期のころのものに、『金剛般若経』というのがあります。そのなかに、こういう表現のしかたがあります。
たとえば、「一切の法は(「一切の法」と申しますのは、「ありとあらゆるものは」ということです。例外はありません)みなこれ、仏法なり」。
これは有名な、仏教の「即非の論理」という、かつて鈴木大拙博士がそういうふうに呼んだ、仏教の論理の一つでございます。
これを私たちにあてはめてみますと、「私は、わたしでない。これを私という」。こういう言い方になる。「私」というのは実体がないのです。「私をして、わたしたらしめているもの」というのはないのです。みんなこれは細胞が集まって、縁起の理法によって、私はいまここにこうしてある。
いま、みなさんと私は向かい合っております。私は話す側。みなさんは聞くほう。たとえばこの会が終わって、みなさんが何か質問なさると、私は聞くほうで、みなさんは話すほう。
つまり、その人、その人のありようは、時と所において常に変化している。変化しているということは、実体を持たないということ。私は常に話す側ではないわけです。「私は、わたしでない。これを私という」。
仮に、私はここにこうしてある。この「私」というのは、頭でつかまえることはできないんですね。私はよく、「私はわたしでない。これを私という」ということを、いのちの真実の姿というのはそういうことだというふうに、お話をするのです。
みなさんは「私」を説明できますか。
いまからおよそ1500年近く前、7世紀から8世紀にかけて、当時の中国、唐の時代です。初唐から中唐にかけて生きた人です。インドから中国に禅を伝えたのが達磨大師ですが、それから五代目の方、歴史的には六代目ということになるのですが、六祖慧能という有名な方がいらっしゃいました。
日本には曹洞、臨済と、黄檗という禅が伝わっておりますが、これらの禅のすべての源は、六祖さんから発するわけです。
その方のところへ、南獄懐譲という方が仏法修行のために訪ねました。そのとき、六祖慧能さんが南獄懐譲に向かって、「是れ甚麼物か恁麼来」とお尋ねになった。当時の中国の俗語ですが、「なに者がそのようにやってきたのか」ということです。禅はこういうことをよく問います。「あなたは何ものか。私は何ものか。本来の『私』とは何か」。
六祖慧能さんは、「あなたは何ものか」とたずねた。南獄懐譲さんは答えられなかったのです。それから六祖さんのもとで8年間修行を続けました。
8年経ったある日のこと、お師匠さんのもとへまいりまして、「私がかつて、こちらへまいりましたときに、『ナニモノカ、インモライ』。あなたは何ものかと、たずねられましたが、私はそのとき、答えることができませんでした。いま、ようやくその答えを得ることができました」といって、そこでひとこと示すわけです。
「説似一物即不中」
漢字ではそう表現しますが、「一物」というのはなんでもいいのです。「それ」ということです。みなさん自身でもあるし、眼鏡でも、なんでもいいのですが、星でも月でも山でも川でも「一物」。
禅で「私」というときは、この一個の肉体と心だけを「私」とは言いません。私と私が生きている世界すべてが「私」なのです。これは大事なことです。
ヨーロッパの近代哲学や近代科学が起こるのは、デカルトの「我思う、故に、我在り」という二元論の世界観から現代科学社会は発現していますが、二元論はいま行きづまっているのです。
つまり、主観と客観に分けて主観が客観世界を利用し、征服し、そしてそれを搾取するという。いまの社会はちょうどそうでしょう。
それによって私たちは、いま大変苦しい生存のしかたを強いられている。二元論の世界というのは、いま大変反省されている状況にあるのですが、仏教というのは、お釈迦さまの当時から、自分と自分の生きている世界を一つのものと見るのです。
今日は時間があまりありませんから詳しいことは申しませんが、科学文明、あるいは経済、政治、そういったものは、私たちの外側から変革することによって、私たちの生き方を否応なく変えていくところがございますけれども、禅は自分が変わることによって世界が変わっていくという、生き方にかかわるものだということをまず、押さえておいてください。
その変わることの基本が坐禅ということなのです。外なる世界と内なる世界が一つになる世界。坐禅の基本はそういうことですね。
今日のテーマでございます、「私がわたしになる」。同義語の反復のようですけれども、私の思いとしては、漢字で表した「私」というのは、名誉とか、財産とか、「名色食財睡」の五欲などのもろもろの自ら良しとする価値にひきまわされている日常的な自己を、便宜的に表現しました。
いま、日本中はグルメ狂いでございますけれども、そういった諸々の、自分が良しとするものに鼻面を引き回されて、そして足もとがお留守になっている「私」が、その放浪の生き方を引き戻す。
「回向返照(エコウヘンショウ)」という言葉がございます。
「回光返照の退歩を学すべし」
私たちの眼は、常に前方ばかりを見ておりますけれども、その光をめぐらして、自分の足下にあてて、「退歩」です。進歩ではないのです。一歩退いて自己の根源に帰りなさい。「回光返照の退歩を学すべし」。
「帰家穏坐」という言い方もいたします。
さまよえる自らが家に帰って、「ふるさと」というのは、自己のことです。「私」の根源に帰って、穏やかに坐す。揺るがないいのちの目覚めに腰を据えなさい。
「あなたは何ものか?」 みなさんへの宿題でございます。「私は何ものか」。ほんとうは、頭では答えられないのです。言葉で答えようとすると、その問いかけているいのちの主人公は、問いかけた言葉の常に後ろにいるのです。後ろにいるということは、言葉ではとらえられないということです。
『金剛経』のなかに、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という言葉がございます。
みなさんはいつも、自分は同一性を保って、変わらずに生きていると思っていらっしゃるでしょうが、写真を見るとよくわかりますね。20年前、他人が見ると、別人のようになっていることがよくあるでしょう。自分だけが、変わらず自分だと思っているだけですね。
我がこころ。昨日のこころはもうないんです。明日のこころは、まだ来たらず。いまのこころは、とらえようとすれば、すでにもう過去のものになるんですね。 時とはそういうことですね。とらえようとすれば、すでに過去へと。仏教では、落謝と申します。過去へ移っていく。
言葉によっては、我がこころもつかまえることができない。そのこころをどうやってつかまえるか。
ほんとうはつかまえる必要はないんです。解放すればいいんです。
思い、はからいを捨てて、こころと姿勢と呼吸を整えて、ただ。
この「ただ」ひたすら、というのが大事なのです。
つまり、右往左往するということは、「ただ」ではないわけです。何かのために私たちは右往左往しているわけです。
ただ坐禅をする。価値がないようだけれども、無限の縁起の理法に根ざした、無限の価値があるとも言えると思います。
短時間でございますので、意を尽くさぬところがございますけれども・・・。ほんとうは、べつに禅だけが「私がわたしになる」ということを標榜しているわけではないのです。
仏教の根本は、「私がわたしになること」ということでございます。時間もまいりましたので、これで終わらせていただきます。失礼いたしました。