過去の法話

一つの言葉で

滋賀県 青龍寺 住職 桂川道雄 老師

「一つの言葉で喧嘩して 一つの言葉で仲直り」という詩の続きをしりたくて、インターネットで調べてみました。驚いたことに、多様に変化して伝えられていました。だから、これだと断定が出来ません。諸説を整理すると、三種類に分類する事が出来そうです。

一つは、法事等でお寺の住職さんから聞いたというモノ。
二つ目は、学校の先生の間で使われているモノ。
三つ目は、会社の朝礼等で使われているモノでした。

興味のある方は、インターネットで検索してみてください。共通している主張は、言葉を大切に取り扱いましょうというものです。

日本人は、言葉を大切に取り扱ってきた民族です。言葉にも魂が存在すると『言霊思想』が存在します。同じ言葉を使うのなら、喧嘩になる言葉より、相手を思いやる優しい言葉を使いたいものです。 その優しい言葉を「愛語」といいます。

「博愛」を説くキリスト教が伝わる以前の日本人が理解する「愛」は、現代の私たちが理解する「愛」と異なります。それどころか、仏教においては「愛」はマイナスのイメージで説かれています。「愛欲」「愛着」「渇愛」と欲望と結びつけ否定的に説かれていました。

しかし、「愛」の文字は先に立って困難に立ち向かいつつ、あとからついてくる人に対しては、思いやりの心を忘れない事を意味しています。誠実に生きる人、芯の強い人が相手を思いやって使う言葉が「愛語」です。
「愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」と、愛語は天地をひっくり返す程の力がある事を「学す」、つまり体験すべきであると説かれています。

さて最初の詩の続きですが、諸説ある中で
「一つの言葉で喧嘩して 一つの言葉で仲直り 一つの言葉で傷ついて 一つの言葉で笑い合う 一つの言葉はそれぞれに 一つの心を持っている」
という詩に出会いました。

言葉に、幸、不幸が存在するのではなく、どうやら、その言葉を使う私たちに責任があるようです。
「一つの言葉で仲直り」「一つの言葉で笑い合う」と、このような良き言葉を使いたいものです。

「一つの言葉で/桂川道雄 老師」(音声:3分8秒)
2013/07/01