過去の法話

喜びを食べる

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

世界中で、お釈迦さまの名前を一度も聞いたことがない、という人はどちらかといえば少数派だといっていいのではないでしょうか。世界中で5億人とも言われるほどの大勢の人たちが、お釈迦さまの教えを心のよりどころとしています。

けれども、むろんお釈迦さまとて、最初からそんなに名前が知られていたわけではありません。実はお釈迦さまがご存命の時代、修行場所に近い大都市の住民のうち、三分の一の人たちはお釈迦さまのお名前すら聞いたことがなかった、といわれます。それゆえに、苦労も大変多かったようです。

例えば、お釈迦さまが町に托鉢に出られても、何の施しも受けられずに、空の鉢を持って帰られることが何度もあったといいます。当然、お釈迦さまもお弟子たちも、空腹に苦しまれたことでしょう。つらさに耐えかねて、托鉢は午前中だけ、という戒律を守りかねるお弟子もいたようです。

空腹にもまして、「自分たちのやっていることに、本当に価値があるんだろうか」、そんな不安がお弟子達をおそうことこあったとしても不思議ではありません。何もかも捨てて選んだ道だけに、世に認められない精神的つらだは、なお厳しいものがあったことでしょう。

けれども古い経典のなかには、そんな彼らを、「人の評価はどうであれ、自分たちの行ないは清いものだ」、という強い信念が支えたことが記されています。

たとえ何も得られなかったとしても
清く生きる私たちの心は こんなにも穏やかだ
私たちは 喜びを食べて生きていこうではないか
(雑阿含経「乞食」意訳)

「何もなくても喜びを食べて生きていこう」、そんなお釈迦さまの力強いお言葉に、お弟子たちはしばしば空腹を忘れて精進したのではないでしょうか。今現在、私たちがお釈迦さまの教えに触れることができるのも、ひとえにその清い信念があったおかげだということができます。

さて、皆さんはどんな信念をもって生活をされているでしょうか。すぐに結果のでることばかりではないでしょうが、お釈迦さまにならって、「喜びを食べて」精進したいものです。

「喜びを食べる/児玉哲司 老師」(音声:2分35秒)
2012/10/29