禅のお話
過去の法話
慈しみの言葉
私は三人兄弟の長男として生まれました。妹が二人おります。小学生の頃は本当にとんでもない兄でして、愛情の裏返しだったのでしょうか、よく妹のことをいじめておりました。ヘビのおもちゃなどを手に持って妹を追いかけ回していたのを覚えております。
中学にあがって、私は寮生の学校に行くことになりました。実家を離れて寮に入りました。家族と離れた寂しさもあったのでしょう…夏休み、初めての帰省の時、私は妹たちにおみやげを買って帰りました。かわいらしいキーホルダーです。
きっと喜んでくれるだろうと思いながら、その小さな紙袋を妹の方に差し出しました。しかし、妹はその紙袋を怪訝そうに見つめながら、「お兄ちゃん、これなに?」と言いました。いじめっ子の兄が自分におみやげなど買ってくるはずがないと思ったのでしょう。
夜、久しぶりに母と話しました。「お兄ちゃん。あの子達、あんなこと言ってたけど、おみやげ本当はうれしいのよ。あなたがいなくなってからいつも、お兄ちゃん大丈夫かな?元気かな?ってうるさかったんだから…」。その言葉を聞いて私は、本当にうれしく感じました。こんな兄でもそんなに心配してくれてたんだと。そして初めて思いました。兄としてこれじゃだめだと。妹に対してちゃんとしたお兄ちゃんになろうと子供ながらに決意しました。
御陰様で今ではとても仲のいい兄弟です。兄弟仲がいいということが私に安心を与えてくれます。そして、兄としてがんばろうという気持ちが、私に力を与えてくれます。
仏教に、「愛語」という言葉があります。愛するの愛に語ると書いて「あいご」と読みます。意味は、言葉を発するときは、常に慈しみの心を持って発しましょうということです。
道元禅師様は、愛語についてこのように教えていらっしゃいます。「面と向かって愛語を聞くと、その人の顔を笑顔にして心を楽しくします。面と向かってではなく、愛語を聞くと、その人はその言葉を深く深く心に刻みこみます。そのような愛語は、社会を変えるほどのすばらしい力を持っているのですよ」と。
慈しみの心をもって言葉を発しているのかどうか考えてみて下さい。かけがえのない方、そうでない方に対しても、慈しみの気持ちをもって言葉が発されているのかどうか考えてみて下さい。私たちが幸せに生きるための大切な教えです。