禅のお話
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不覚の涙
奈良県 宝泉寺住職 北野伸英 老師
先日、知り合いの結婚式に招かれました。花嫁さんは早くにお母さまを亡くされ、お父さまが男手ひとつで育てられたひとり娘です。
式のクライマックスは、何と言ってもそのお嬢さんが父親に向けて手紙を読むところ、そして対するお父さまが娘に送る言葉を捧げるところです。
娘からの「ありがとう」の言葉と感謝の涙、父親もまた「ありがとう」の言葉と共に涙をこらえきれないようでした。同じ涙でも、父親のそれはいわゆる「男泣き」というもので、心中を察する会場の人たちの涙腺もまた緩くさせるものでした。
結婚式の後、そのお父さまは「不覚にも涙を流してしまいました」とおっしゃいました。
「不覚」とはあまり良い意味で使われる言葉ではありません。「分別も無く」とか「意にあらず」といったニュアンスでしょうか。しかし、不覚にも良い不覚があると思うのです。
「不覚」の「覚」とは「覚る(さとる)」を表します。仏教においては、人は生まれながらにして仏であるといわれます。仏ということは、人は皆、本来 悟りを開いている、あるいは、悟りを開く可能性を本来持ち得ている、ということです。これを「不覚」に対して「本覚(ほんがく)」と申します。
1人残されたお嬢さまを、仏の本覚をもって愛情豊かに育てられたお父さま。しかし、不覚にも流されてしまった涙は、父親のあまりに素直で生々しい人間の姿でした。その美しさが、会場の人たちの涙をも誘ったのでしょう。
不覚であることを恐れることなく、胸を張って生きようではありませんか。
2012/02/20