過去の法話

今こそ足元を見つめよう

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

以前、ある作家の講演を聞きにいった時のことです。
講演のあと、会場から「先生の考える幸せとは何ですか」という質問が出て、講師の方は一言、
「幸せについて考えないでも済む事です」
と答えられたのです。

その時は、頓知でうまく切り抜けたなあ、と感じたのですが、後になってみると、なかなかの名回答だな、と思います。どこかの店先に並ぶような、形の決まった幸せなどありませんから、そんなものを気にしないで過ごせるのが本当の幸せなのでしょう。

私たちの体も同じです。胃でも腸でも頭でも、意識していない時が実は一番調子よく働いている時です。体のことは、ちゃんと正常に働いている間は意識から消えています。ですから、逆に体をいつも意識したり、健康を気にしているというのは、どこかがぎくしゃくしている、といってもいいでしょう。

ところがテレビをつけると、朝から晩までどこかのチャンネルで健康番組が放送されています。どういう症状はどんな病気だ、この検査の数値はどのくらいが正常だ、どんな食事が体にいいか、何が予防になるか…そんな情報が世間にはあふれています。

おかしなもので、健康や病気について情報を知れば知るほど、それにあわせて私たちの不安も大きくなっていくようです。考えなくても済むことこそ健康だったはずなのに、ひょっとすると不安に追いかけられて、幻の健康をどこか遠くに探すようなことになってはいないでしょうか。

健康の話だけではありません。お金を貯めるタイプの人に
「あなたは何でお金を貯めるのですか」
と聞くと、大概が同じ答えをするそうです。
それは、
「お金の心配をしないでも済むようになりたいから」…。

その気持ちもわかる気はしますが、これでは何だか本末転倒ではないでしょうか。頭の中に理想を描いたために、足もとの今の瞬間がそのための手段に成り下がってしまっているからです。
どうやら、今の社会のいろいろなところに、こういった逆説がはびこっていそうです。

道元禅師さまは、明日のために今日を手段にすることを強く戒められました。
一日一日は独立した比べられない価値があるのだから、明日のために今日を費やしてはならない。
今日という一日に、真正面から向かいなさい
とお示しです。

実体のない「幸せ」や「健康」といった言葉に踊らされて、その結果今日の一日を「不幸せ」や「不健康」に暮らすようなことになっては、実にもったいないはなしです。今の時代、足元を見つめる智慧が強く求められているのではないでしょうか。

2006/04/18