禅のお話
過去の法話
いろは歌
「いろはにほへと ちりぬるをわか」
どこかで聞いたことはありませんか。現在の五十音の「あいうえお、かきくけこ」が使われる以前、長く平仮名への入門としてつかわれて来たものです。
「いろはにほへと ちりぬるをわか」では意味がよくわかりません。
色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ
ではどうでしょうか。
これは「いろは歌」と呼ばれ「いろはにほへと」の元になっています。
この「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ」には、「諸行無常 是生滅法」という仏教の教えが詠み込まれています。
「この世の一切は無常であってすべては一瞬としてとどまらないで流れている。生があれば必ず滅がある」という教えです。
もう一度申し上げますと「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ」であります。「諸行無常」を感じることは諦めることであります。どうも日本人はこの諦めを消極的にとり、かなしみを持ったなぐさめの教えに受け取りがちですが、そうではありません。
赤ん坊が「おぎゃあ」と生まれるのも「諸行無常」。昨日蕾であった花が、今日咲いているのも「諸行無常」であります。
久しぶりに友人と出会った時、かつて友人が抱いていた赤ん坊が、大きく成長していると「こんなに大きくなって」と驚きの声をあげます。これも「諸行無常」であります。
しかしその陰には老いている自分がいます。咲く花があれば散る花もあります。「老いる」「散る」一面だけを見ると、「諸行無常」はただ悲しい出来事の慰めの調べに聞こえますが、世の動き、ありとあらゆる変化の全部を観察した結果が「諸行無常」なのです。
このような「諸行無常」の見方で人の一生を眺めますと、可能性に満ちた歳若い時代だけに人生の醍醐味があるのではなく、中年・老年には若い時に味わえなかった、「人生の喜びと悲しみをしみじみと噛みしめる良さ」があると云えるのではないでしょうか。また若い時代には若い時にしか感じられない人生の喜びと苦悩を思い切り体験しておくべきであります。
さて「いろは歌」は
浅き夢みし 酔(ゑ)ひもせず
で締めくくられています。
「浅くも短い夢をみたようなものだ 酔ってもいないのに」と、実にアッサリと幕を閉じるのであります。
人生それぞれの時期にそれぞれの味わいを楽しみながら、しずかな世界に向うことを期待したいものです。