禅のお話
過去の法話
生きていること
京都府 神応寺住職 安達瑞光 老師
人は死ぬものだということを、日常、全然忘れて暮らしています。死と隣り合わせであることさえ、さほど気にもかけずに日々を過ごしています。
しかし、まさに死に直面したならば、生きていることを強く実感するそうです。
作家・高見 順 は「電車の窓の外は、 光りに満ち喜びに満ち、生き生きといきづいている。この世と、もうお別れかと思うと、見なれた景色が、急に新鮮に見えてきました・・・」(『死の淵より』)
俳人・正岡子規 は 不治の病、 絶望の悶々たる日々にあって、夜空に満天の星が輝くのを見ました。その中、一つの星のきらめきに生きる希望を得ました。
「真砂なる 夜空の星の その中に 我に向かいて光る星あり」
作家・日野啓三 は、自らの体験談として、手術の長い時間が過ぎて麻酔が醒め意識が戻りつつある時、最初に見えたものは病室のひび割れた壁のシミ。 それがまぶしく見えた。 窓の外には霜枯れの枯れ草が風に揺らいで光り輝いてきらめいている。その時、 自分は生きているのだと実感した。そして、この世がこんなに光り輝いた、すばらしい世界であることを、これまで思わずに暮らしてきたことに気づいたそうです。
お釈迦様は足下の砂の一つかみをもって、「人身得ること難し」と。そしてさらに砂をまた一つまみして、「仏法にあうことはさらに稀なり」と。「この身、今生において度せずんば、いずれのところにか、この身を度せん」と、人々に説かれたそうです。
今、幸せな人生を送らなければ、生まれてきた甲斐がない、仏の御命を生かせと教えられました。
2006/03/01