禅のお話
過去の法話
目に見えないもの
「おい、もう飯くったか?」
ご飯は食うものでしょうか?と、いわれて何のことかと思われるでしょう。ハッと気がついた人は何人いるでしょうか。
ご飯でもパンでも、肉でも魚でも、私たちは平気で食べていますが、「私を食べてください」と言って飛び出してくるおにぎりやパンがありますか?鶏やトマトがありますか?
釣竿の陰を見ただけで魚はみんな逃げ出すでしょう。 みんな尊い命を持っているのです。
「これはおいしい」とか「これはまずい」とか、私たち人間の勝手で、動物や植物の尊い命を奪って食べているのです。
「肉も魚もスーパーで金を払って買ってきた」「給食費は毎月ちゃんと払っている」といっても豚や鶏にお金を払った人がいるでしょうか。パンやトマトの命に対して一円でもお金を払ったことがあるでしょうか?
目の前に出された食べ物がいかに安全に留意して多くの人の手を労したかを思い感謝するとともに、食べ物の尊い命をいただくお礼の気持ちが合掌の姿となり「いただきます」となるのでしょう。
ご飯は食うものではなくいただくものです。
「ところで君、子供何人つくった?」
これは最近の若いサラリーマンの会話の一部です。
子供はつくれるものでしょうか?世界広しといえども、わが子と同じ命を持った子は一人もいないのです。 尊い命を人の力で作れるものでしょうか。
子供はつくるものではなく、授かるものです。子宝に恵まれ、子宝を授かるのです。
世の中、このように目に見えてないこと、わかっているようで分かっていないことがいかに多いことでしょうか。
目には見えないが、多くのものの命をいただき、多くのものごとに支えられて生きている。生かされているのです。