過去の法話

いのちを食べるいのち

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

私たちは日々三度の食事をします。誰でもおいしいものはお腹いっぱい食べ、まずいものはできるだけ遠慮したい、というのが正直なところでしょう。けれどもお釈迦様は、
「食事はちょうど薬を飲むようなもの。好き嫌いでたくさん食べたり、少ししか食べない、というようなことがあってはならない」
とお示しです。

食事の時には「頂きます」と手を合わせますが、これは肉であれ野菜であれ、もののいのちを頂くからです。食事とは、他のもののいのちを消費して我がいのちをつなぐ行為に他なりません。だからこそ、舌先の感覚に踊らされてその有り難味を忘れないように、とお釈迦様は戒められたのです。

しかし、毎日のことだけにどうしてもその有り難味にはマヒしてしまいがちです。特に最近の消費生活は、切り身の魚やパック詰めの肉に囲まれてしまっていて、自分がどんなものの犠牲のうえに生きているのか、どんどん実感が薄れていく怖さがあります。毎日「頂きます」とは言いながら、その言葉の意味が薄らいでいってはしないでしょうか。

童謡詩人の金子みすずの詩に、「大漁」という作品があります。

朝やけ小やけだ大漁だ  おおばいわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど  海の中では何万の いわしの弔いするだろう

どきっとする、そしてちくりとする痛みを感じさせる詩です。この女流詩人は食事のたびに、「いのちを頂きます」と心中でつぶやかずにはいられなかったのではないか、そんな風に思えます。

この作品が私たちの心に響くのは、私たちが「いのちを食べるいのち」である、という当り前の事実を思い出させてくれるからでしょう。いのちははかなく、ありがたいものですが、そのいのちを食べることでしか私たちは自分のいのちをつなげません。私たちはその自覚を日々忘れてはならないと思います。

難しいことですけれども、薬のように食事をえり好みせず有り難く頂く努力を少しずつでも実践しましょう。そうすれば、それによって生かされているわがいのちの有り難さもきっと実感できるからです。

2004/11/04