禅のお話
過去の法話
自分を習う
上の娘がバイクの免許を取って一ヶ月。
バイクが溝にはまって転び、擦り傷ができたそうです。
夕食中に、電話でこの報告を受けたとき、「可愛そうに、もう一度転ぶぞ」と、家族の中で話をしました。
なぜなら、『バイクが』ではありません。『自分が』バイクを溝にはめたのです。
無意識にバイクのせいにしていたからです。
バイクは悪くありません。タイヤやブレーキの点検は元より、自分の責任を自覚しなければならないのです。
現在の責任逃れの風潮は間違いです。このように教育してきたはずなのに、たとえ無意識であれ、自分の子供がわかっていませんでした。
社会でも学校でも家庭でも、まず他のせいにしないで、自分を見つめなければなりません。 『自己を習う』ことを忘れてはならないのです。
学ぶべきときにこそ、人は真摯に学ばなければならない。これを道元さまは学道と示されました。
親孝行は両親への愛情表現ですが、理屈で学んでも続きません。そこには理屈ではなく、情が必要です。ようするに楽しみと共になければならないのです。
日々小さな精進を重ねていくと、ついには山のような大きさになる。そうなると世間が広がってくる。人の学識や度量は、ひとりひとりの人が改革を外に求めず、内に求めることによって、おのずと外が変わるのです。
自分の努力は第三者がきめます。ここに人間を信ずる世間の絶大さがあると思います。
智慧を学び、たくわえることによって、自分自身を動かしてきたこころと釣り合いがとれてきます。この人は嫌いだとこころが思っても、「この人の考えた方、苦悩がわからないものである」。このように考えるのが智慧です。
状況は変わらなくても、自分の内面がこころの持ち方が変わってくるのです。
はやく娘に話してやらねばと思っていましたら、2日後にまた転んだそうです。身体中擦り傷だらけです。続けて二度痛い目にあうと、やはり自分でそれなりに考えたそうでう。心配しなくても子供は成長していくものですね。