禅のお話
過去の法話
言葉を漂流させないで
世界にはおよそ200ちかい数の国があるそうですが、ではそこで話される言葉、言語の数はどうでしょうか。
なんと驚くなかれ、6000ほどもあるそうです。けれども、それだけある言語も、この先十年間で半分以下になってしまうと言われています。
それというのも、英語のように大きくて強力な言葉がますます大きくなっていく一方で、話し手の少ない小さな言葉がどんどん消滅していっているからなのです。話し手の数が十人にも満たない小さな言語、動物でいえば絶滅寸前の言語が、アメリカやオーストラリアの先住民たちを中心に世界にはたくさんあるのだそうです。
ある映画で、こんなシーンがありました。
舞台はオーストラリア、ある企業が土地を買収して開発を計画しますが、原住民が反対します。そこは彼らにとって、大変に神聖で重要な場所だからです。やがて裁判になり、双方が争う法廷に、それまで口がきけないと思われていたある原住民の老人があらわれます。そして突然、涙ながらに誰にも理解できない言葉を叫ぶのです。
実はその老人は、もはや絶滅してしまった言語の最後の話し手だったのです。彼の魂の叫びのような言葉も、もはや誰にも理解してもらえない。その彼の悲しみを想像すると胸がつまります。
こういう現実を目にして、あらためて私たちの日常を考えてみると、その有り難みが実感できます。一億人以上の人が使う、大きな海のような日本語のなかで、私たちは自由に泳ぎ回って、いつでも誰にでも好きなことを表現することができる恵まれた環境にあるのです。
しかし、何でも言えるからといって、真実だけを口にしているわけではありません。むしろその逆に、何でも口にできる有り難味をわすれ、嘘や心ない言葉、無責任な言葉、自分と向き合わない適当な言葉の数々を漂流させて、その海を日々汚してはいないだろうか、と反省させられるのです。
お釈迦さまは、常にお弟子に対して
「言葉を選びなさい、そして真実(まこと)を語りなさい」
と戒められたそうです。なんでも言えるはずの恵まれた条件にある私たちにとって、この戒めは強く響くものがあります。
「最後の晩餐」という質問があります。もし明日地球が滅びてしまうとしたら、あなたは今夜、何を食べるか・・というものです。これにならって質問をさせてもらいましょう。
「もしも、私たちの日本語が明日ほろびてなくなってしまうとしたら、あなたは何を伝え、何を話すでしょうか?」