過去の法話

「あたりまえ」の向こう側

京都府 隠龍寺住職 児玉哲司 老師

全国にはレンタルビデオ店が6000店近くあるそうです。
ビデオを借りてきて見るのは、今では私たちのごく日常の娯楽になっています。お蔭で私たちは、映画を気楽に見ることができるようになりました。

いつでも好きな時に見られます。それから何度でも見られます。ビデオが当り前になったことで、映画の新しい楽しみ方が生まれたわけです。

ただ、特に今日でなくてもいつでも見られるわけですから、どうしても気持ちのほうは緩みがちです。少なくとも、「今しか見られない」という緊張ゆえの感動は、映画の世界からもう消えてしまいました。当り前になったことで、何かが失われたのです。

私たちの日常生活にも、この「当り前」があふれています。どんなモノにでも不足を感じないで済む現在は、大変ありがたく豊かな社会です。
ただ私たちは「当たり前」の感覚に馴れ過ぎてしまって、ひょっとするともう、こうやって生きていること自体を大きな「当り前」のように感じてはいないでしょうか。

本来ひとの一生というのは、ビデオと違って巻き戻しもできないし、あとでもう一度、というわけにもいきません。一度きりの出会いの連続です。
けれども私たちは、どうもこの「当り前」に首までつかってしまって、毎日の生活から大事な何かを失ってはいないでしょうか。

『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(祥伝社)という本があります。井村和清さんというお医者さんが32歳の若さで亡くなるまでの記録が本になったものです。
その中に、癌で余命わずかと宣告されたその日の井村さんの、不思議な体験が書かれています。ちょっと引用してみます。

「その日の夕暮れ、病院の帰り、アパートの駐車場に車を停めながら、 私は不思議な光景を見ていました。世の中がとても明るいのです。スーパーの買い物客が輝いて見える。犬が、雑草が、電柱が、小石までもが輝いて見えるのです。アパートへ戻ってみた妻もまた、手を合わせたいほど尊く見えました」

このように書いておられるのです。

道元禅師は

「仏道を行じるものは、常に無常を思いなさい」

とお示しです。 この井村さんは、わが身の無常を感じた時、それまで身の回りの「当り前」に過ぎなかったものが、本当はどれも一期一会の存在だった、そう気づかれたのでしょう。そして、その時の井村さんの目には、文字通り世界が輝いて映ったのだと思います。

この世界を「当り前」というフィルターで曇らせているのは私たち自身です。この当り前の向こう側、無常に徹したところにこそ本当に生き生きとした世界が姿を現すのではないでしょうか。

2003/10/21