禅のお話
過去の法話
施食会の意義
「お施餓鬼は、お盆の行事じゃないんですか?」
と聞かれたことがあります。
「施餓鬼会」を「施食会」と申します。
お盆は、目連尊者の親孝行に由来していますが、施食会は、阿難尊者にまつわる行事です。
阿難尊者はお釈迦さまの十大弟子の一人で、従兄弟にあたります。お釈迦さまに最後までお仕えし、説法を一番多く聞かれたお方です。
この阿難尊者がまだ若い時のことです。坐禅をしておりますと、髪の毛を振り乱し、やせ細った餓鬼が現れてきました。その餓鬼が阿難尊者に向かって、
「あなたの寿命は、あと3日しかない。そして、死んだならば、私と同じ餓鬼道に落ちるのだ」
と言うのです。そこで阿難尊者は、
「お前は、私の寿命を知るだけでなく、死んだ後の世のことまで知っている。それぐらい見通すことができるならば、どうしたら長生きができるか、餓鬼道に落ちなくてすむか、知っているだろう」と聞きますと、
「それは知っている」
「ならば教えてくれ」
餓鬼が言うには
「私達、餓鬼道に落ちて苦しんでいる者に、満腹するだけのご馳走をして、私たちが成仏できるような有難い法要をしてもらいたい」と言うのです。
ところが、阿難尊者は、出家修行の身で、あらゆる餓鬼に満足させるだけの貯えも財力もありません。そこで、お釈迦さまにこのことを報告しますと、
「阿難よ、案ずることはない。<無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼>という陀羅尼(お経のこと)がある。この陀羅尼を唱えながら、ひとつまみの食べ物を施すと、それが無量の食べ物となって、無数の餓鬼に施すことになるのだ」と教えられました。
そこで、阿難尊者は<無量威徳自在光明加持飲食陀羅尼>を唱えながら、ひとつまみの食べ物を施したところ、それが無量の食べ物に変わって、多くの餓鬼を救うことができたのです。この説話が、施食会の始まりです。
ここでお考えいただきたいのは、阿難尊者の前に現れた餓鬼の姿です。
餓鬼というのは、人様に施しを受けても、感謝の気持ちがありません。いくら施しても、いつも「足りない。足りない」「もっと欲しい、もっと欲しい」と、もがき苦しんでいるのです。
自分中心に物事を考え、他人のことを少しも考えない人を餓鬼と申します。
施食会は、ご先祖はもちろんのこと、祀り手のない仏様、無縁の仏様にも供養の手をさしのべる法要です。お盆にだけ行われる行事ではありません。
一人ではなく、家族そろってお参りしましょう。