禅のお話
過去の法話
布施
私はタイの国に参り、お寺で托鉢をさせていただきました。
タイの村では朝早くから、昔ながらの釜戸に火を入れてお米を炊き、準備して寺院から来る僧侶たちを待ちます。
僧侶が裸足で近づくと、人は皆まず履いていたゾウリを脱いで裸足になり、ひざをついて、手を合わせて挨拶します。
その後、それぞれの僧侶の持つ器にご飯を差し上げます。その家の子供たちも、ひとつひとつに入れてくれます。
お家により袋にお惣菜を詰めて渡す人、生卵を入れてくれる人もいます。
タイの国の托鉢では相手の人が徳を積むことから、布施の心を受け止めるため、僧侶は無言で挨拶もしません。いただく形になる「ありがとう」と、いいません。
布施行です。ご自分でつとめていただく大事な行です。
慈悲深い行いを、願い誓い誓願します。
僧侶はお寺に帰り、目の前に置かれた食事が出来上がってくるまでの手数がいかに多いか、それぞれの材料がここまできた経路に、思いを受け止め、手を合わせ、おいしくいただきます。
人から人へと長い経路に、連なるご縁に感謝して、只ひたすらに仏になり、美味しくいただきます。
布施をする。与えること。慈しむことです。親切な行いをする。
「一人で食事は面倒だ。寂しい食事はかなわない。」と、あなたは食べ物をいただく事、自分の命を粗末にしていませんか。
あなた自身が、自分自身の体に親切にしていますか。
食事にもご縁にも感謝して、いのちの存在を粗末にしないで下さい。