過去の法話

感謝

滋賀県 青龍寺住職 桂川道雄 老師

私たちは、身近な人々に、不足や不平をよく云います。
「自分だけ損をしている」「自分だけワリを食って、つまらない」。
反面、感謝の言葉である「ありがとう」とはあまり使いません。なぜでしょうか。

身近な人々の、貴重な存在を忘れているのです。存在自体に慣れ親しんで感覚がマヒしているのかも知れません。だから「ありがとう」と頭が下がらないのです。身近な人に対する甘えというか、欲望が強すぎて、何をしてもらっても「当たり前」「当然のこと」と受け流しているようです。

「ありがとう」とは、「在ることが難い」「有ることが難しい」。
「難しい」とは「めったにない」ことを意味します。だから、「ありがとう」とは、「めったにないことに、出会った」と云う感謝の言葉です。私たちは、「当たり前」「当然のこと」と受け取っているので、何をしてもらって、感謝という言葉を忘れているのです。

私のようにわがままな、そして、自分勝手な人間のために、身近な人々は、何かにつけて気にかけてくれている。「ありがたいな」と自分の存在が、少しでも見えたら、感謝の言葉を使うことが出来るのです。

日頃、自分は立派な人間だと思い上がっていますので、何をしてもらっても「ありがとう」と素直に頭を下げることが出来ないのです。

私たちは感謝の言葉も頭の中には知識として知っています。また、どのように動けば、周りの人々に優しく接することが出来るのかと、知っています。知っていますが、実行しませんので、周りの人々には、伝わりません。

何が不足しているのでしょうか。
知っていることを、実行するという、実行力が足らないようです。

自分が満たされたら感謝の言葉を使おう。人々に優しく接しようと、条件がついているようです。「自分が満たされたら」という条件は、満たされることはあるでしょうか。「自分だけ損をしている」「私だけワリを食っている」と考えている間は、この「満たされたら」という条件は、満ちることはありえません。満たされませんので、私たちは感謝の言葉を一生頭の中に詰め込んだままの状態です。

感謝は、自分を知った人の言葉であり、感謝の言葉は、お世話になった周りの人々の心を明るくする力があることを学ばねばなりません。

2003/04/30