禅のお話
過去の法話
共に利益を廻らす
四つの智慧の実践項目(四摂法)の第3番目—利行(人のために尽くすこと)—について学んでみましょう。
仏教では「無所得」という言葉があります。
無所得と言っても税務署の申告用語ではありません。所得する事、見返りを得る事を考えない事です。
この事について道元禅師さまは、「佛の道に入ったならば、只、仏法を学んで修行して、その結果により何かの得る所を頂こう、などと思ってはいけない。」と戎ましめられておられます。
ですから善根功徳を積んでも、その事で「善い人だと思われたい」と、そんな下心があってはならないのです。
善い事なればそれを無心に、さわやかに行ないなさいと教えます。
私達は大なり小なり目的を持って生きています。その目的の為、つまりお金の為にとか、上役になる為に会社で仕事をする、そんな事ではなくて「仕事の為に仕事をする」その事が望ましいのであり、結局、修行をするのも「修行の為に修行をする」のが本当の修行であるとのお示しです。
つまり「はからい」を捨てた純真な心でなければなりません。
「はからい」とはこの場合「お返し」を求めようとする心であり、「はからい」を捨てるとは、畢境見返りを求めない事です。
昨今、国家間の援助事業にしても全てが「利益のかけ引き」の結果を考えてに他ありません。
考えの浅い人は他人に利益を与えると、自分が損をすると思いましょうが利行は自他ともに通じ合っていて、他を利する事は、それが廻って、やがて自他を利する事になるのです。
即ちギブの立場もテイクの側も共々にギブアンドテイクで互いが共生きの社会を築き上げることになるのです。
この辺の消息を道元禅師さまは中国の古い話を例にして懇ろにおさとしです。
それが困っている亀と病気の雀のふたつの話です。
捕らえられて籠に入れられた亀を買って逃がしてやり、あるいは病気になった雀を救ってやった話、後にそれらの亀と雀が恩返しの奇瑞を見せたと言います。最初からその恩返しをあてにして助けたのではないと繰り返しお述べになっておられます。
ギブの立場もテイクの立場もひとつであって自分と他人の区別なく一枚でありますから「対立」のないあいだであります。
「利行は一法なり普く自他を利するなり」とのお言葉の如く自分と他人、自国と他国、共に一枚と考える事こそ、21世紀の地球の上に展開されたいものであります。