過去の法話

供養のこころ

滋賀県 禅常寺住職 上田了禅 老師

先日、お参りの方がこんな事をおっしゃいました。「物事に困ったとき、亡くなったあのお母さんだったらどうするだろうなって、考えるんです。」

素晴らしいですね。亡くなられたこのお母さんの生き方が、今もお手本になっているのですね。この方は知らず知らずお母さんに問いかけて答えを出そうとしています。

例えばお墓参りをいたします時、亡くなった方を思い出すこともあれば、また、見守って下さいと思うこともあるでしょう。「子供がこんなに大きくなりましたよ」とか、何でも語りかければいいのです。これら語りかけは、先祖供養の素朴な原点ではないかと思います。

お墓参りをしまして、問いかけても亡き母の声がすればいいのですが、たいていはしません。それにいったい誰が答えてくれるのでしょうか? それに答えられるのは、自分の心の中にある在りし日の母の姿です。亡き父の姿です。

次のような話があります。
昔、兄弟がいた。親が亡くなって後、兄弟そろって墓参りをしていたが、長年たつうちに兄の方は、気苦労の多いのに堪えかねて、親のことを忘れたいと思い、心の憂さを忘れさせてくれる言い伝えのある、わすれ草を墓のそばに植えた。弟は、兄が墓参りもしないのを不快に思って、自分は親を忘れまいと思い、墓のそばに、心にかける思いを忘れさせないと言い伝えのる紫苑(シオン)を植えた。ある時、墓の中から鬼の声がして、弟の親を思おう心を褒め、その日のうちに起こることを夢によって予知させようと約束し、それは完全に実行された。 

この話の中の弟は、墓参りを通して亡き父親との対話を深め鬼に褒められた話として興味深いものです。

さて、供養とは、「三宝にお香やお花・食べもの等を供え、褒めたてえて敬い、教えに従って修行すること」であります。
三宝とは仏様の仏と、仏様の教えである法と、その教えを実践修行する僧侶の集団の僧の三つを言います。この供養の中で、三宝にお香やお花・食べ物などを供えることは多くの人がされますが、褒めたたえて敬い、教えに従って修行することも行って頂きたいのです。

修行といいましても特別なことを考えることはありません。それは思いやりの心でする言葉がけであります。例えば、亡きお母さんお父さんに対して、願いをかけようとするだけでなく、「慈しんでよく育ててくれましたね」とか、「小さい頃は、訳もわからずにいまいしたから、さぞかし苦労をかけたことでしょうね」とかの思いやりの言葉がけの供養を行っていただきたいのです。
そういった墓参りの供養が、より対話を深め、あなた自身の供養の修行となるに違いありません。

2002/11/19