禅のお話
講演録
わたしの道元さま
平成22年2月8日に立松和平さんがご逝去されました。
大本山永平寺の機関紙である『傘松』誌上に連載し、まとまられた小説「道元禅師」や歌舞伎「道元の月」の脚本を手がけられるなど、宗門とのご縁もたいへん深い方でした。当教化センターにおいても京都にて講演していただくご縁がありました。
平成14年度「禅をきく会」の講演録を再掲載させていただき、ご生前のご活躍をしのぶとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。
- 御一代記はとても厳しい素材
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みなさんこんにちは、立松です。
去年は道元禅師の750年の大遠忌でした。いま司会よりご紹介いただいたとおりに、僕にはたいへんな役が回ってまいりました。それは、歌舞伎に道元禅師の話を上演できないかという話で、台本を担当しろということなのでした。
僕は、永平寺の機関紙『傘松』にずっと道元禅師の小説を書かせてもらっています。毎月20枚ずつ原稿を書いております。
道元禅師の『御一代記』というものを、生まれたときから、お亡くなりになるまで破綻なく書くことがきるだろうか?文筆家としては非常に厳しい素材、対象です。
例えば父母についてです。母というのは、藤原摂政関白家の松殿家の伊子という人物だというのは、名前だけはわかっています。父親というのは、久我源氏ですが、村上天皇の流れを引く久我家の通親という説と、通具という説とがあります。通親と通具は父と子です。父と子か、どちらかがよくわからないというのが現実なのです。
しかも、お互いの主張があるというのでしょうか、お互いに、それなりの論拠があります。
通具というのは、『新古今和歌集』などを編纂した藤原定家と同じように、非常に文学史上に名を残した人物であり、通親というのは、どちらかというと偉大な政治家だったのです。そういう父と子なのに、どちらが道元禅師のお父さんかわからないというのが、現実であります。ですから小説の作者としては、どのように書いても、どちらかから怒られるわけなのです。僕は、母方が曹洞宗で、栃木県の宇都宮というところなのですが、あそこの和尚・方丈さんとはとても親しいので、「どちらか宗門で決めていただきたい。そうすれば、そのとおりに書きますから」と言うと、「そんなものわかるか」と怒られました。しかし、伝記作者としては、やはりそういう気持ちになるわけです。
- これは自分の修行なのです
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5年くらい前に、道元禅師のご生涯が小説、文学作品にならないだろうかとお話がありました。これは宗門の一つの悲願(というと、ちょっと大げさですが)、望みであるということを永平寺から言われました。僕には正直いいまして、少し臆する気持ちがありましたが、『御一代記』の本に連載、毎月20枚ずつ書くということを引き受けました。実際に書いてみると、毎月20枚、修行しているような気分になります。これは自分の修行なのだということが、よく分かりました。
750年大遠忌の去年のうちに、小学館で本を出しました。それは、中国でお悟りをひらかれ「身心脱落」されるまでの、いわば青春の道元禅師の物語であります。ちょうど大ざっぱな計算をして、750年の大遠忌に間に合うなと思いました。
とりあえずは計算どおりに進み、僕は去年までにそこまで書きました。
最初はそこで終わるつもりだったのです。ちょうど大遠忌に間に合い、本になり、仕事が一つ完結する。永平寺の機関紙の編集長さんは、たまに用があって東京に出てこられます。僕が25歳、身心脱落までは書かせていただきます。ちょうど青春の物語としてよろしいでしょうと言うと、編集長さんはうなり始めまして、「どうされましたのですか?」とお聞きしましたら、「越前まで来てもらわなければ、私らは困る」とお話される。永平寺ですから、越前まで、志比庄まで行かなければ困るというのは、よくわかるのです。
しかし、僕としたら10年かかります。「こつこつと書いて、ずっと途切れなく『御一代記』を書けば、10年は軽くかかりますよ」と言ったら、「そんなものやればいいじゃないですか!!」と言われ、ようやく5年が経ったというしだいでございます。気が長い話ですが、僕はこの仕事が好きです。
小説『道元禅師』というタイトルで書き上げましたが、単行本のときにずばり『道元』としてしまいました。中身は『傘松』で書いたものです。
ようやくいま連載では、京都に戻って来ました。中国の修行を終えられ、そして熊本経由で大宰府経由で京都に戻られ、建仁寺に入られた。そしてさてどうするかというところまで、ようやく辿り着きました。これからが本当に厳しい教えの内実に踏み込んでいく、厳しい作業になると思っています。こつこつと道元禅師とともに、この5年間と、これから先の5年間を歩み続けるわけです。本当にいい修行をさせてもらっている。皮肉とかそういうことではなくて、本当にそう思っているのです。
- You are here. 自分の現在地
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道元禅師といえば『正法眼蔵』。非常に難しいご本です。日本語の文学者の一人としても、日本語がここまで到達したかと思わせるような、峨々たる山脈です。一つの山ではない峨々たる山脈。富士山がいくつも連なっているような山脈であります。
その書物を暇があれば目を通すようにして読み続けています。しかしわからない。わからないことがあまりにも多いのですが、わからないのも臆せずに読み続けております。
僕はこのように思います。少し前に、僕はイギリスのロンドンの公園を歩いていて道に迷いました。広い公園なのです。ピクニックができるような広い、芝生と原っぱみたいな広い公園で、自分がどこにいるのかわからなくなったのです。
そして道を歩いていくと、やがて地図が出てきました。鉄板に地図が書いてある看板がありました。その地図の道の中にぽつっと赤い点があり、そこが現在地です。日本語なら「現在地」と言いますが、英語では「You are here」と書いてあります。「お前はここだ」というのです。「You are here」。親切です。「お前はここだ」と書いてあるから、自分はここにいるのだと思い、なんとなく全体がわかりました。
それから先へ先へと、一本道ですから歩いていきました。またやがて看板があり、赤いポチがありました。同じ地図で、印刷したような地図で、そこに赤いポチがあって、その赤いポチは移動しておりました。そこに移動したところに「You are here」と書いてありました。僕は、その何分間か前の看板から次の看板まで、テクテク歩いてきたわけです。そして現在地が変わったわけであります。
僕はそのとき、はたと気が付きました。我々はいつも歩き続けている。諸行無常ですから、いっときも立ち止まることもなく、歩き続けているわけでございます。そして自分が立ち止まっているつもりでも、時は流れていく。諸行無常です。どんどんどんどん時は飛び去っていく。ですから立ち止まっていても、一箇所にいるというわけではありません。我々は、そうやって人生の道を歩いているわけです。人生は旅だと。あるとき、いまここにいるから「現在地」です。
あと何年か後に、例えば3年後に同じ場所にいるかというと、それはない。常に我々は変わっているわけであります。その変わっていることを認識することが必要なのではないかと、僕は考えます。
しかし、その変わっていることを認識することに、どのようにしてそのことが認識できるかという問題がある。自分はいつもこの一点に立ち止まっているわけです。点で立ち止まっているわけです。しかし、こう動いて行ったという痕跡を示すためには、僕が公園で見たような地図が必要になるわけです。その地図をどうやって見るか、何をもって地図とするかということです。僕にとっては『正法眼蔵』が地図です。『正法眼蔵』自体は何も変わらずに山脈としてそびえているわけです。その中を僕が迷って、ちょろちょろ歩いているということです。
3年目にまったく同じ本で、同じ文章、同じ活字で読むわけです。3年前には何かわからなかったことが、いまわかるということは、しばしばあります。
僕は55歳になりましたが、40歳ぐらいのときに『正法眼蔵』を細々と読み始めました。40歳のときに全然わからなかったものが、いま少しはわかるようになります。そういうふうに一生かかって読み続けている本というのは、いつもいま「現在地」、人生の「現在地」、「You are here」を示してくれます。お前はここだよという赤い点を教えてくれるのです。『正法眼蔵』は一生懸命に取り組んでいる本です。
- わからなくても読み続ける書
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僕は、学生のころインドに旅をしました。中村元先生が翻訳された『ブッダのことば』という岩波文庫の本をポケットに入れて行きました。『ブッダのことば』という本は非常にやさしい日本語で、誰にでもわかる、難しい単語なんか全然使っていない、お釈迦さまの言葉として書き留められていた断章です。詩のような短いフレーズです。しかし、やさしい言葉で書かれているが、内実は深いという。本当に辞書を引かなくては読めないような難しい言葉はほとんど使われていない。読めばすらすらと読める。ただ内容はあまりに深いので、それを理解しきったとは、なかなか言うことができません。
つまり、僕は20歳のころに一生懸命に読みました。しかし30歳でまた同じ場所を読めば、また趣きが変わってくる、違ってくるわけです。
『正法眼蔵』は本格的に読み始めたのは、そのころよりずっと高年齢になってからですが、それでも同じことです。僕はいつも変わっていました。みなさんも同じです。いつも変わっていますからで、そのときの『正法眼蔵』がわからないからといって諦める必要はない。そのとき、その場所の気持ちで読めばいいのだと思うのです。ですから『ブッダのことば』を僕は、これもまた自分の座右の本として、なるべく持って歩いて、折りにふれ読み続けていくわけであります。
『正法眼蔵』も、本当にこれをわかったなどとは、一生言えないだろうと思いながら読んでいます。もうわかった、というのは嘘だと思います。そんなにわかるものではないけれども、すこしずつわかってくるという実感はあるわけです。それが僕は、人生の「現在地」を確かめてくれる偉大なる書物だと思います。
そういう書物を持つということは、人生の幸福です。いつも迷っている。この虚空の中に放され、自分がどこにいるのかわからないのが我々の常ですよね。しかし、その書物を読むことによって、自分の「現在地」がわかってくるということです。
僕は一生、この『正法眼蔵』、また『ブッダのことば』を読み続けます。完成した先のことはまったくわからないけれども、やはり小説を仕上げるまでいつも「次はどうしようか」と考えております。作者としては頭から離れません。これがまた僕の修行だと思っているのです。こういう修行ができるのは、そういう機会を与えられたことが非常に幸福だと考えているしだいでございます。
50年前の700回大遠忌のときに、僕と同じような立場で、小説を宗門から依頼されたかたちで書いた作家がおられました。里見とん(変換不能)さんです。大作家です。僕なんか及びもつかない文学史に名を留める大作家ですが、なかなか小説を仕上げることができませんでした。
岩波文庫で『道元禅師の話』というエッセイが読むことができるわけですが、『御一代記』を破綻なく仕上げるということが本当にできるのだろうか。どこかで失敗すると、やはり因果ですから、必ずその通りにいかなくなる。
一枚の布を織るのでも、縦糸がしっかりしていなければ横糸も入りません。いつもその時点で完璧になるように全力を尽くしていかなければ、道元禅師の『御一代記』という一枚の布を織り上げることができないと思っております。言ってしまえば、修行する、自分が精進するということで切り抜けていくしかしかたがないわけです。小手先でどうこうできるような世界ではないわけです。そのようにして何年間か、毎月毎月、実際の作業としては苦しみながらやっております。
- 小説家の想像力で歌舞伎にする
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はじめにもすこし話しましたが、何年か前に、道元禅師の歌舞伎ができませんか、と歌舞伎の話がありました。道元禅師を芝居にするのには、やはり格式というのが当然必要であると、僕は思います。どこでもいいものではない。伝統的にやはり日本の芝居の最高峰、一番最高の舞台というのは、歌舞伎座の舞台だと思うのです。京都では南座です。もちろん伝統演劇ばかりではないので、何を最高かというのは当然、人によって異論があると思いますが、しかし歌舞伎座で道元禅師をやるならば、これはいいなと、みんなが思うわけです。
僕のところに台本書けという話が回ってきました。そうやって言われるのなら、これも縁だからがんばろうと思ったしだいであります。
しかし考えてみれば、道元禅師を小説にするのも非常に難しいのですが、歌舞伎座の舞台というのは1時間半の時間しか与えられないのです。そうすると1時間半の中で、ある局面の、ある一つのことしか描けないわけです。『御一代記』をずらっとやっても散漫になって、あまり感動するということは難しい。『御一代記』の中で一つのできごとを選び、ドラマチックな部分を描こうというわけです。
僕は小説を書いていて調べているとき、あることに気付きました。源氏の鎌倉将軍頼朝の子どもが二代目将軍頼家です。その子どもに公暁というのがいます。公暁は自分のおじさんにあたる三代将軍実朝を暗殺した人間です。この公暁と道元禅師はまったく歳が一緒なのです。年譜をいろいろ調べていて、そのことに気が付いたのです。しかも園城寺、大津市の三井寺で同時期に修行している。先生は公胤という天台宗のお坊さんです。二人が仲良かったか、仲悪かったかという、記録はもちろんないけれども、小説家の想像力を使わせてもらって、同時に修行したのであれば、おそらく話したことはあるだろうと考えました。
道元禅師は、摂政 藤原家の子どもです。放っておいたらば、いずれは摂政関白になるような人物です。それを全部捨ててお坊さんになっていった。出家していったということです。一方、公暁の父は鎌倉将軍の頼家です。鎌倉将軍頼家は、北条方に修善寺温泉で殺されました。頼家は、北条方の出身の人である実の母の政子に、修善寺に流される。そして弟の実朝を三代将軍につく。非常に込み入った時代の話です。
そして、結局 頼家は暗殺される。ひどい殺され方です。お風呂に入っている時に、北条の手の者に襲撃され、真っ裸で殺されるのです。そういうことがあって、父親が殺された公暁という男が、鎌倉から出されてどんな思いで京都に来て修行するのか。大津の園城寺で修行してくるか。
そのときに、道元禅師は中国の仏法に非常に興味を持つ。道元禅師は若いときから疑問をたくさん持った人です。人間というのは生まれながらに悟った存在であるという、本覚思想というものがあります。道元禅師は「本来、生まれながらにして悟った人間であるのに、どうして厳しい修行をしなければならないのか」という疑問を持つわけです。これは有名な話です。
天台の中でお坊さんたちに質問しても全然わからない、解決しない。 結局、日本の中で解決できずに、中国で本当の仏法の先生に会いたいという気持ちが高まってくるわけです。正師に会いたい。本当の勉強がしたい。それには中国に行くしかないだろう。中国に行きたくて行きたくて、道を求めて、求道の精神、本当に強いものが道元禅師にはありました。
- 正師を求め中国へ求道の旅
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我々のいまの時代で一番欠けているのは、求道の気持ちです。本当に命にかけても、命よりもそちらのほうが大事だという、やむにやまれぬ気持ちです。我々はいま、その衝動というか強い気持ち、その気迫に欠けているのではないかと、自分自身を含めて思わざるを得ない。勉強したくて勉強したくてしかたがないわけです。
公暁にとっては嫌な日本です。いろいろ政治的な策動があり、親まで殺され、そして自分はどうやって生きていくかわからない。武士の息子ですから、身体が大きく、武芸に達者な人物だったようです。実際に実朝を切ったときも、一太刀で首を切り離したというのですから、すごい怪力の持ち主だったようです。公暁もこの日本が嫌だったわけです。
このへんから少しフィクションが入り混じってくるので、割引して聴いてくださいね。
僕の考えです。詳しくは小説を読んでください。そのあたりを苦労しながら書きました。わからないことが多すぎるので、ある程度そういうことを使わないと。逸脱したらダメですが、その範囲の中で物語の流れるように想像するのです。
道元禅師は、中国で勉強したい、正師に会いたい。本当の先生に会いたいという思いは非常に強かった。公暁も、中国に行きたかったのではないか。これは想像です。 - 観客をひきつける素材とは
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曹洞宗という宗門は大きな宗門で、ずっと坐禅三昧、本当に坐禅三昧の修行をされている方たちがたくさんいらっしゃる。その筆頭は宮崎禅師だと思います。宮崎禅師はいまは103歳になられたようです。何度もお話をしたことがあるのですが、前に坐ると山のような人で、がっとお坐りになっている姿は本当に岩を前にされているような方です。しかし宮崎禅師は毎朝、永平寺で3時半ぐらいから坐禅をされているという話を聞きました。
宮崎禅師のような、そういう老師たちがたくさんいらっしゃるのです。その人たちがもし歌舞伎座に来て、僕が書いた道元禅師を見て、なんだこれはと言われたら、もう立場がないわけで、消え入るよりしかたがないわけです。また宗門のお寺がたくさんあって、檀家のおじいちゃん、おばあちゃんたちが、道元禅師さまに会おうということで、たくさんいらっしゃる。そのおじいちゃん、おばあちゃんたち、いわば善良な庶民の人たちが観て、ああよかったなと思ってもらわなければいけないわけです。
それから歌舞伎座というところは、8割ぐらいは普通の歌舞伎ファンが来るわけです。上等そうな着物を着て、幕の内弁当を食べて、楽しそうに芝居を見るという人たちの層が一番大きい。8割ぐらいがそうです。
適当に三つの人たちの話をしましたが、禅の修行をされている一途の老師と、檀家のおじいちゃんとおばあちゃんと、ちょっと白粉臭いお化粧されている歌舞伎ファンのおばちゃんと、3人とも満足させるということができるのだろうかと思ったのです。はっきり言って無理だと思いました。絶対これは無理だと。
あまり易しくしてしまうと、なんだこれはと言われてしまいますし、あまり難しくし過ぎても、なんだこれはと言われてしまう。
みんなが興味をもってみてくれる時代はどこだろうと考えました。 - 道元禅師の鎌倉行北
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48歳ぐらいのときに鎌倉に行かれている、鎌倉行化という話です。
道元禅師のお師匠さまの如浄禅師は、国王・大臣に近づくな、政治、権力者に近づくなということは大切な教えになっている。これは道元禅師に対する戒めであり、そのとおりに道元禅師は生きてこられた。ですから京都にいなかったわけです。追放されたようなかたちであったけれども、越前の山の志比庄という、いわば田舎の山の中に籠もって一途に修行され、権力には近づきませんでした。それはいまでも、そういう教えは守られているわけです。
それは絶対的な教えであるにもかかわらず、道元禅師は一度だけご縁で鎌倉の執権北条時頼に呼ばれて鎌倉に行っています。これはいったい何かということです。これはいろいろな賛否両論があるので、本当はこういうところは避けたほうが僕自身の小説家としても無事なのですけれども、しかし、そういう無事ばかり考えていては、物語はできません。道元禅師はなぜ行かれたのかということを考える。
このときだけですね、唯一、権力者に近づいたのは。近づいたのか、それは言葉のあやで。でも、距離的に鎌倉に行って、目の前に、時の大権力者である若干21歳の北条時頼、その男と向き合ったことは事実です。どうしてそういうことをされたのかということは、一切説明はない。ただ行かれたという事実だけがあるわけです。ここをやろうと、僕は思ったのです。
本当に難しいことです。北条時頼の家臣に波多野義重がいました。波多野義重は京都の六波羅探題のナンバーワンではなくて、もう少し下なのですが、侍だったわけです。北条家家臣・波多野義重は、最初から最後まで道元禅師の庇護者です。一生懸命にサポートした人物であります。道元禅師に帰依する波多野義重がいなければ、今日の曹洞宗は、たぶんなかったのではないか、と僕は思います。
京都で禅を広めていくと、当然のこととして叡山からものすごく迫害を受ける。そして京都から放逐されていくわけです。そして行くところは、波多野義重の領地です。波多野義重の領地の、越前の志比庄、いまの永平寺のあるところであります。いまでも田舎ですが、当時は本当に田舎だったでしょう。その山の中に入って行く理由がないわけではなくて、当然、波多野が呼んだわけです。その波多野義重というのは片目だったのです。それはなぜかといえば、承久の乱かどこかの戦争で、片目に矢が目に刺さるわけです。そのとき、そのことにもめげずに大将の北条なにがしに、戦闘の状況を報告に行く。大将がえらく感心して、論功行賞され、越前の志比庄を与えられたという人であるわけです。
彼は一貫して道元禅師に帰依する、身も心も本当に道元禅師が好きだったのでしょうね。そして京都から越前に行くときも、ずっと警護をしたと伝えられています。
- 戦乱の世を生きる戦士たち
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武士の政権が鎌倉にできてきた。しかし武士の政権は安定しません。いつも殺し合いです。血なまぐさい風が吹き荒れていた。『吾妻鏡』を読みますと、あのころは天変地異が多いのです。火山が爆発する、地震が起こる、そうすると津波が起こる。地震で鎌倉の神社仏閣、一柱も余さず倒壊したと書いてある。それから干魃、長雨で不作、凶作になる。凶作になると、今度は田舎から難民が都会に出るしかないですから、鎌倉のまちは難民で溢れたとなっています。そういう時代は、例えば日蓮という人物が現れて辻説法を始めたりという、宗教が非常に求められていた時代でした。牛馬が道で死んでいるとか、本当に散々たる状況だったわけです。
このとき、北条時頼21歳であります。北条時頼が執権になった途端、宝治合戦という、三浦の乱という乱が起こります。三浦の乱とは、三浦半島の領主だった三浦一族というのは、頼朝と最初から旗揚げに参加している鎌倉幕府の名門中の名門です。その三浦一族と北条一族が合戦になってくる。いわば、両雄並び立たずというか、三浦が力を付けすぎて、戦端が開かれてしまうのです。
「いざ鎌倉へ」という侍たちの言葉があって、それは政権を持った人のところに鎌倉の侍は助けに行くという構造なわけです。全部、北条のほうに助けに行くわけです。それで、当時の名門の三浦一族は滅びます。その前に畠山とか比企とか、ずっと頼朝と生死をともにしてきた武将たちが次々に滅びていくのですが、そのとき三浦一族は最後に、鎌倉の中で戦争をやる。当然、火災が起きる。最後に5〜600人の三浦の一族が法華堂というところに籠もったと、これも『吾妻鏡』に書いてあります。法華堂というのは頼朝の御廟です、お墓であります。そこに最後に籠もって切腹して果てるわけです、5、600人が。時の三浦の侍大将がいて、家臣の誰かが、「この法華堂に火を放ち、その隙に我々は切腹して果てよう」と言うのですが、彼はこう言います。「ここは頼朝の鎌倉殿の聖地である。火をかけてはいかん。自分たちはいまここで滅びるけれども、それは自分たちの祖先がいっぱい悪い因縁を積んできたからである。罪のない人をたくさん殺し、そういう悪い因果を重ねてきたために、いま我々の身に因果が報いて、ここで果てるのである」ということを言うわけです。
そして、「我々を滅ぼしたという因果は北条殿に報いるであろう。北条もいつまでもあのままにおれない、必ず滅びる」と言って、全員が切腹して果てる。侍大将の弟の三浦泰村が、自分の顔をわからないように、刀で顔を潰して死んだと書かれている。その血が飛び散って頼朝の慰霊にかかったという、生々しい描写が、これも『吾妻鏡』あるのであります。
そうやって、まさに末法の世の、そういうドラマがあった翌年、道元禅師は鎌倉へ行かれている。鎌倉は物見遊山に行くようなところではない。戦場、戦争の跡が生々しい、本当に瓦礫の山、廃墟のまちだったと思います。そこに道元禅師が行かれているわけです。そこを芝居の舞台にしたわけです。
- なぜ鎌倉に行かれたのか?
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なぜ鎌倉に行かれたのか?これは『正法眼蔵随聞記』にもいろいろな書かれているけれども、鎌倉から人が来て、どうぞ来てくれという誘いがあった。「本当に仏法を教えることに、自分はやぶさかではないけれども、求める心があるならば、千里の海も山も越えても、ここに来るべきではないか」というようなことが書かれている。
実際にそういうふうに道元禅師は考えだったしょうね。そしてずっとお世話になった波多野義重という人物が、「鎌倉に来てください」という一生懸命に招聘しているわけです。あれだけ恩のある人物の頼みというのは、無碍に断れるものではありません。しかし自分の師匠の如浄禅師の、国王・大臣に近づくなという教えも絶対であります。これは本当に苦しい選択です。しかし結果的に我々は、道元禅師が鎌倉へ行かれたことを知っています。道元禅師の、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷 すずしかりけり」。あの歌は鎌倉でつくっているのです。確かに鎌倉に行かれているのです。
その師の教えと実際の行動と、どのように整合性を持たせて、いまの時代に語りうるかというのが、僕に科せられた問題であります。ただ波多野の、お世話になった人の頼みだから、断りにくいから行ったというのでは、あまりにも俗っぽい。しかし、先生の如浄禅師の教えを守るならば行かない。しかし実際に歴史的には行かれている。どうしたらいいか。歌舞伎だったら、「さあ、さあ、さあ」で終ってしまうのですけれど、僕はそうはいかないわけです。結局、悩みに悩みました。
そして芝居の中では、ほととぎすが鳴くのです、「きゃあきゃあ」と。ほととぎすは口の中が赤いのです。ほととぎすは血を吐く思いで鳴くと、三津五郎は言うのですけれども。「自分は時頼殿の心からの叫びを聞いたように思った」というようなことを言っている。
つまり、時頼は救ってほしいわけです。それは因果が満ち満ちて、ご先祖さまたちがいっぱい因果の種を蒔いていて、それが執権になった途端、全部自分のところに押し寄せるわけです。しかも、それは政治のひりひりするような舞台です。ひとことで言えば、何人もの首が飛ぶような、何か厳しいところ。しかしその座は安泰なものではない。いつもそこに座りたい人間がたくさんいる。ちょっと気を緩めれば、他の者が、そこに座ろうと狙ってくるという歴史があるわけです。しかしそこを自分が捨てれば、また乱が起きるだろう。人々が苦しむだろうということもわかっているのです。
- 菩薩行としての決断
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ここからは僕の考えた世界、完全なフィクションですけれども、道元禅師が鎌倉へ行かれたことと、あの時代のことを考える。時頼が21歳ということ、それから時頼の人生を考えます。
時頼は、『鉢木』という謡曲のモデルになっている人物です。ようするに、諸国巡歴をした人です。お坊さんの姿に身をやつし、人々の暮らしを見ていったという伝説が残っています。本当にやったかどうかわからないけれども、そういう伝説が残っています。
非常に困窮している佐野源左衛門という人物が、旅の僧に身をやつした時頼を家に泊めてもてなすのだけれども、薪を燃やすものもないので、最後に鉢の木、盆栽の梅鉢の木を囲炉裏にくべて、旅の僧をもてなします。そのときに何か鎌倉にできごとがあったらば、痩せ馬を飼っているから、その馬にうちまたがって、「いざ鎌倉へ馳せ参じる」ということを語るという物語です。
そのあと時頼は、みんなを試すために全国の武士を招集する。真っ先に痩せ馬にまたがった佐野源左衛門が実際に駆けつけてきて、源左衛門に論功行賞したという物語が残っています。本当か嘘かわからないけれども、しかし何にも根拠のないところに物語は立ち上がりません。
実際に時頼という人物は、鎌倉の中では名君と言われております。人々の気持ちを知って、また知るためにお坊さんになって諸国を歩いたという。鎌倉時代に北条の名を持った執権が、そういうことをしたのは時頼たった一人です。だからとてもいい人だったと思うのです。そういうふうになるためには、何かのはたらきかけがあるはずであります。
お母さんの松下禅尼という人は、障子を破れたのを自分で繕って、質素倹約を息子の時頼に教えたという話が、戦前の修身の教科書には出てくるそうであります。そういう日本史の中でも、やはり優れた名君として伝わっているのが、北条時頼なのです。
しかし実際に、21歳で執権になったばかりのときには、三浦一族を血の海の中で一人残らず滅ぼしているわけです。連中が反乱を起こしても、片っ端から平定し、子どもは殺す、奥方は尼にする、もしくは殺す。そういう厳しい時代に生きた人間だから、ただの善人の人物というはずはないわけです。しかし時頼には、自分の居場所を、居心地のいい場所だとは思えない。
いま、小泉さんの顔を見ていると、白髪が増えたなとか、痩せたなとか、目つきが悪くなったとか、みんなが思っていると思うのです。それは苦しいだろうと思いますよね。でもみんな、あそこに座りたいのだから、不思議だなという感じはします。北条時頼がいた執権の場所などは本当に因果に満ちた厳しい場所でしょうね。
そして時頼は一生懸命、道元禅師に「助けてくれ、救ってくれ、自分はここにいることは、どうなのか、教えてくれ」と、一生懸命、道元禅師に呼んだのだと思うのです。これはもちろん想像です。道元禅師がわざわざ行く理由は他にないのです。それは、すごい名僧だという噂は流れていたはずです。ところが、越前の山の中に永平寺を建てて間もないころです。籠もっていて出てこない。「自分を助けてくれ」という叫び声だったわけです。波多野の言うことなら聞くだろうという、そんな考えもあったと思います。
だから芝居的には、ほととぎすが鳴いて、道元禅師が、「時頼殿は自分を一生懸命に呼んでいる声のように思った、自分を助けてくれという一生懸命に救いを求めている人間を救いに行くのは、菩薩の行いではないか。それは仏が教えてくれたことではないか」。そうお思いになるのです。
- 玄明のおこない
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『正法眼蔵随聞記』の中にいろいろなエピソードが出てきます。あのころのことを調べると、永平寺が物質的に非常に困窮してきた様子が、いっぱい感じられるのです。『正法眼蔵』の中にも、お米がない。なければ粥にすればよいのではないかということが書いてある。粥にもできない。重湯をつくればよいのではないか。重湯にもならない。お湯を沸かして、それを飲んで坐禅をしていけばよいではないか。本当の真理を求めることのほうが、お腹一杯にすることより大切なんだということを、繰り返し繰り返し書かれている。
本当に困窮していたんですね。着る物と食べる物というのは、仏に帰依しているものは生まれながらに持っているのだ。何も食べる物、着る物を得るために、つまらない努力をする必要はない。持って生まれたのだということを、繰り返し繰り返し説かれている。相当に経済的に困ってはいないのかも知れませんが、裕福ではなかったと思います。
道元禅師のいろいろな書かれたものを組み合わせて、ストーリーをつくっていきます。
永平寺にはもうお米がない。そこへ 飢え死にしそうな乞食の女が子どもを抱いていてやって来る。優しい雲水がいて、(これは勘九朗の息子の勘太郎がやったのですけれども)その女に最後のお米をやってしまったわけです、見るに見かねて。そうしたら、みんながが怒る。優しい雲水は玄明という若いひとです。玄明というのは、永平寺に伝わっている名前ですけれども、みんなが玄明を怒るわけです。「どうして、これでは修行ができないではないか。お腹が減って坐禅もできないではないか」と糾弾する。そこで道元禅師がお話になる。
これは『正法眼蔵随聞記』の中に書かれているエピソードですけれども、建仁寺で本当に困った親子がいて、飢え死にしそうな親子がやって来た。そのときに栄西禅師は、仏像の光背をつくろうとし用意していた銅(あかがね)をそっくりくれてやってしまった。それで、周りのお弟子さんたちが師匠をなじったわけです。「これは仏のものだ。仏のものなのに、どうしてやってしまうのか。非常に問題ではないか」と怒るわけです。
これは、道元禅師が聞いた話として書かれていることです。そのときに栄西禅師はこうおっしゃった。「仏は飢えた虎の前で、飢えた虎の親子に対して、自分の身も骨も血も全部あげたではないか」。これは捨身飼虎の話です。法隆寺の玉虫厨子にある捨身飼虎。お釈迦さまのものでは、ジャータカというものに描かれている話です。
「仏はそうやって、自分の身も骨も血も全部を供養したではないか。自分は仏像をつくるための銅をあげてしまった。しかし仏像というのは器物・金物というように、それは物なのだ。ただ本当に大切なものは、仏の教え、真理というものだ。しかし、仏のものを他人にあげてしまったために、自分が地獄に堕ちるであろう。それはわかっている。それでよいのだ、それで。何でも供養して助けてあげるのが仏の道ではないか」ということが、『正法眼蔵随聞記』の中に道元禅師が話された物語として書かれているのです。
そんな話をして、その玄明を、他の攻撃的な雲水から救ってやるというエピソードも書いたのです。そして好んでか好まざるかわからないですが、はからずも苦しい権力の座に座っている時頼を救いに行く。
鎌倉には行きたくはないです。そんな難民のまちで、行くのに夜盗に襲われるかもしれない。武力的には何の力もないわけだから、何かがどんな災難があるかもわからないし、お弟子さんたちも行かせたくない。しかし菩薩の行い、お釈迦さまは、自分の骨も血も全部、飢えた虎に捧げた、仏はそのように菩薩の行いをしようという思いで、戦乱の血生臭い鎌倉に行くという話です。
何人もがいろいろ助けてくれて、そういうようにできていったんだけれども、そのストーリーが浮んで、なんとなくうまくまとまってきたのでよかったなと。いろいろなことを、小さいエピソードはいっぱい積み重ねてきました。
- 時頼の心の叫び
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時頼は、家臣や親の前では非常に元気です。それは源氏の大将、鎌倉の大将ですから、そんな気弱なことはできません。非常に強いのだけれども。みんなの前で、「とにかく道元禅師が来てくれて、とてもうれしい。よく来てくださった。これで自分たちは武士のための寺を鎌倉につくろうと思う」。大きな禅寺をつくる。これは建長寺のことです。建長年間です。建長寺をつくろうと、それでそこの住持に道元禅師になっていただこう。たくさんお坊さんを集めて、思う存分修行していただこう。それで米がないとか飢えたということは、もう一切ない。
普通、俗人だったら、それでうれしいわけです。よかった、よかったとなるけれども、道元禅師は、すべてを断るのです。布施というのは貪らないことである。へつらわないことである。『正法眼蔵菩提薩埵四摂法の巻』に書かれています。貪らない、へつわらない、真理の前に従順になる。これは道元禅師の根本的な教えです。
大きなお寺に住持になり、鎌倉武士の庇護の下に入れば、それは次の米にこと欠くことはないでしょう。そんな貧しくお湯を飲んで坐禅してなければならないようなことはないでしょう。しかしそれはへつらうことである。貪ることであるという、強い信念が道元禅師にはあるのです。結局、武士のための禅のお寺というのは、道元禅師は断る。でも建長寺はできる。
蘭渓道隆という中国から来たお坊さんが、第一回目の、初代の住持さんになっていくわけです。ありえないことですけれども、歴史が一つ違っていれば、道元禅師が建長寺の和尚さんになっていた可能性は充分にあるわけです。しかし、一切のお申し出を道元禅師は断るわけです、ただ救いに来たわけですから。
またこれも芝居になるのですけれども、時頼は道元禅師と二人で話したい。心の中の叫びを聴いて欲しいというので人払いをして、道元禅師と話すわけです。そして自分の苦しみを打ち明ける。
「この場所は恐ろしい。ひとつ間違えれば、たくさんの人が死ぬ。もし自分がここをどけば、たちまち変って出るものがあるだろう。そのたびにまた乱が起こり、たくさんの人間が死ぬのだ。この場所をどくわけにはいかない」しかし、ここへきちっと座って、ここでいなければいけない苦しさを縷々と訴えるのです。権力の座というのは苦しいと思います。僕は座ったことがないからわからないけれども、想像するのには、やはり苦しいと思います。一家のお父さんだって苦しいのだから、たいへんだと思います。
「どうしたら救われるだろうか」、心の底から道元禅師に問いかけた。それは道元禅師は何を言うかはわかります。『正法眼蔵』やいろいろな著作を読み、曹洞宗としての教えを考えればいい。わかることです。
- 時頼よ、すべてを捨てなさい
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つまり、「あなたは執権の座にあって、何にも離さないで、両手でぎっちりといろいろなものを掴んで、握りしめている。そしてその上に、またなお自分の安寧、平安を掴もうとしているわけです。何かを掴むためには、握っているものを捨てなければ、掴むことはできません。放下といいます。ところが離さないで、なお掴もうとする執着した上に、また執着するから掴めないのであって、捨てればいいのではないか」
これは一目瞭然のことです。その場所が苦しいのだから、その場所から降りればいいではないか。それは因果が全部変る。これはあまりにもわかりやすいことです。しかし、救われるためにはそれしかない。しかし時頼にしたら、「この場所を降りろと」いうのは、鎌倉幕府を滅ぼすことではないか。乱が起きるではないかという思いがある。でも「捨てなければ、あなたはいつまでもこの苦しみは逃れることはできない」と、本質的なことをおっしゃるわけです、当たり前のことです。
だけど時頼にしたら、あまりにも本質を突かれるし、できないことです。それだけはしたくないということがあり、非常に苦しむ。そして、刀を持っていますから、最後に抜き放ち、道元禅師を切ろうとするわけです。これは芝居です。こんなことは実際にはなかったと思います。
それは時頼としたら、捨てろ、その場所から降りろということは、鎌倉幕府を否定することであります。だから、切ると言って刀を構えるのですが、そのとき(これはまた芝居ですが)道元禅師が只管打坐の坐禅をされるわけです。
ずっと坐禅をする。自然の山のような美しい坐禅の形をすれば、それは人間を説く完璧な姿となります。僕は、お釈迦さまのような坐禅をしたその完全な姿、美しい姿に向かって刃は触れないという場面をつくりたかったわけです。三津五郎がちゃんとできるかどうかが問題だったのですが、やはりさすが役者です。いい役者だと思ったけれど、もうずっと坐禅をされてきた老師みたいにすうっと坐禅をして、結跏趺坐になって動かない。やはりそんな完璧な姿に向かって刀を振るということはできませんよね。それをその姿だけで納得されるという、非常に困難なことをやったわけであります。そしてうまく舞台がいったなと、僕は思っているのです。
そのときに、刀を振り上げ切ろうとさえした時頼は、初めてわかるのですよ。自分が執着する、何も捨てないで、なおかつもっと別のものを得ようとしたという愚かさを知るわけです。しかし、やはりその場所を、いまでは「辞めた」と言って捨てることはできない。
これは我々がそうです。例えば一家のお父さんがそうです。会社に行きたくないなと思いながら、やはり行かなければならない。なぜそれを我慢しなければならないとか、いっぱいあるわけです。それを耐えて耐えているのが、我々の現実です。
- 時頼は俗人のチャンピオン
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つまり時頼は、我々俗人のチャンピオン、代表者だと、僕は思うのです。しかしわかるわけです。道元禅師のおっしゃることが、よくわかる。ですから、「いま降りたら、たちまち乱が起きてできないけれども、できるだけ早くそうしましょう。そのように私は生きたい」と時頼は言う。時頼は中村橋之介がやったのだけれども、なかなかなものでした。
そして実際に史上の北条時頼は、二十代後半のときに執権を息子の時宗に譲っているわけです。次の代の人に譲り、お坊さんの姿をして、諸国漫遊したというお話になっていますので、ストーリーはつながっていくのです。
そういう芝居的なストーリーを使いながら、道元禅師の教えを、我々に向かっての教えで、高邁な教えというのはたくさんあるのだけれど、しかし誰が見てもわかりやすい教えを、芝居のストーリーの中で説いていこうというのが、僕の考えであります。
我々は、やはり時頼と同じように執着している。執着してないようでも、やはり執着している。しかし自分だけではない、社会の中にいるから、「もうここの場所は嫌だ。お父さんの座は辛いから嫌だ」と、ぱっとどくわけにはいかない。お母さんの座も「嫌だ、損だ」と言って、ぱっとどくわけにもいかない。そういう中で暮らしているのが現実だと思うのです。
簡単にはいかないけれども、道元禅師は本質の中にいらっしゃるわけです。だって、摂政関白の血筋を引いた人ですから、これは北条よりも家柄としてはずっと上でしょうね。そういう人が全部を捨てて修行者になっている。雲水になっているわけです。浮く雲のごとく、流れる水のごとく、とらわれもなく生きているから、道元禅師には一切、悪しき因果はありません。ところが時頼には、ものすごい因果が被ってくるということなのです。ですから、道元禅師のいろいろな残された書物の教えと、やはり実人生、道元禅師の人生を検証していくと、本当に何の矛盾もない話になるのです。
- 自然をもう一つの主人公に
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僕はこの芝居の中で、役者さんとか、演出家とか、舞台をつくる大道具の人たちに言ったのですが、もう一人の主人公が自然です。例えば、道元禅師と波多野義重とか、懐奘さんとか、いろいろなお坊さんが、永平寺の部屋の中で話をしている。カッコウが鳴いて道元禅師がお弟子さんに、障子を開けさせる。障子を開けたら、障子だけが開くのではなく、ずっと屋根まで上がってしまうのです。芝居だからそのくらいのフィクションはやるのですが、ばあっと柱だけ残って、どういう場所にいるかということがわかる。それは初夏の緑深い、すがすがしい永平寺の中、自然の真っただ中で、目の醒めるような山の息吹の中です。こういうところに永平寺があるのだ、自然の中にあるのだということを見せることができる。
実際にそういうことはないのです。障子を開けたことぐらいで屋根まで飛んでいったら、家は壊れてしまうけれども、芝居だからそのぐらいできるわけです。
鎌倉から帰ってきたときには、雪の永平寺。どうしても歌舞伎座の人は、永平寺といえば雪という固定観念があり、雪の永平寺を美しくつくりたいというのです。完全に山の自然を再現するようにしたいという強い思いがあり、杉林の中の伽藍があって、そこで道元禅師がお芝居をするという場面を設定いたしました。
東京の歌舞伎座は2千人入ります。自我自賛みたいだけれど、幕が上がると、特に雪の永平寺のときには、観客席から溜息がふうっと出て、そのあと拍手が起こって。舞台装置に拍手が起こったのは初めてだと、みんな喜んでいました。
- 玄明の悲しき物語
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「道元の月」では永平寺に伝わる一つの物語を、僕は使いました。玄明の物語です。玄明という人物は、一緒に道元禅師と鎌倉に行きました。そして荘園を北条時頼からもらってきて、それをみんなに自慢した。そうしたら、道元禅師は怒って破門したと。しかも坐禅する台である単を取り払い、しかもその下の土も何尺か堀り捨てたというほど怒ったと、伝わっている。そして、追放されたわけです。
けれども、永平寺の承陽殿には玄明和尚の位牌が置いてあるのです。いつごろつくったのか、よくわかりませんが、みんなのためやったのだから、もうそろそろ許してやったほうがいいという、永平寺のお坊さんたちの思いがあって、道元禅師のお奉りされている承陽殿に位牌が、いま置かれている。みんな優しいなと思います。
この玄明和尚というのはたぶん、伝説上の人物です。でもこれは、道元禅師の思想を表現するためにつくられた物語です。物語というのは記憶装置です。思想なり何なりを記憶するための道具です。ですから玄明の物語というのは、道元禅師が、貪らない、へつらわない。時の権力者の北条時頼は、軽い気持ちで荘園をくれて、それを玄明は、みんながお腹を空かせて修行もろくにできないような状態は嫌だと、リアルに知っていますから、それはもらってきてしまった。一切、悪い気持ちはなかったと思うのです。
いま我々の俗世の中では、よくやったということだと思います。だって、ご褒美をもらってきて、それでみんながお腹を空かないですむのだから悪いことは一つもないだろうということになると思うのだけれども、道元禅師はそうではない。貪るな、へつらうな、ということは徹底されていて、そうやって荘園をもらってきてしまった弟子を破門するということをされたと伝わっている。
芝居の中でも、勘太郎がやった玄明は非常に心優しくて、自己犠牲はいとわない人物です。そして、自分たちの食べる物を乞食や女に与えてしまい、みんな怒られ、そして道元禅師に救われる。そういう心優しい玄明を、本当の修行に連れて行こうという思いで鎌倉に連れて行ったという、僕の考えたストーリーであります。
やはり、だいたい歳が時頼と同じ若い雲水さんだと設定して、道元禅師が先に帰る。向こうでいろいろな人に頼まれ、坐禅教室とか、そういうものをやるために、玄明だけ残っていて、しばらく時頼と二人の時間を過ごして帰ってきたという設定にする。
玄明とすれば、乞食女に、なけなしの米をあげてしまったという負い目がありますから、いつかは取り返したいという思いがあるわけです。野球の中でエラーしてしまったら、せめてチームの中でヒットを打ちたいと思うわけです。玄明も普通の青年ですから、自分の失敗を取り返そうとして、時頼に荘園をもらってきてしまった。
お師匠さんの道元禅師とすれば、そんなつもりでいたのではない。へつらってはならない。自分は全部そういうものを断ってきているのに、弟子がもらってきてしまうのは、非常に困るわけでしょう。結局、本当の修行というものが、玄明はわかっていないということで破門するという、これはそういうふうに伝わっていた話どおりに、芝居の中のストーリーをつくりました。
そして袈裟をして、みんなが坐禅堂に行って、僧堂に行って坐禅をするのと反対方向に、玄明がとぼとぼと去っていく。お師匠さんの道元禅師が大好きなのに、でも自分の失敗を認めて、玄明はとぼとぼと去っていく。本当の修行をしなければならない。「なまじな、中途半端な優しさでは、かえって修行の邪魔をするのです。そのことを考えてきなさい、本当の修行ができたと思ったら、いつでも戻ってきなさい。永平寺の門は開かれておる」と言われて、雪のそぼ降る中を玄明は去って行くというストーリーです。
鉢を手に持った玄明を道元禅師が一人で見送ります。鉢とは托鉢の鉢です。これはないと托鉢できませんので、それだけは持っていきます。玄明は「お師匠さま」と、一生懸命に呼びかけて去っていきます。すると道元禅師が、「玄明よ。お前の鉢の中を見なさい」と言う。涙をぼろぼろ流しているのですが、「その鉢の底に溜まった涙にお月さんが映っている」。これは芝居ですので、本当に映るかと言われれば、映らないかもしれませんがこう言います。「涙に映る月。その月はお前の本当の仏だ」
- すべてに満ちる月光 仏の教え
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道元禅師というと、月のことを考えるのです。芝居の中にも書いたのですけれども、月光が降り注いでいます。月光というのは、どれを選ばず、すべてを包んで、光は万象のものだと、『正法眼蔵』の中にあって、僕は大好きなのです。万象とはすべての現象です。月光というものは、すべてを包んでいる、万象を包んでいるわけです。
例えば手を差し出せば、この手の中に月光は満ちるわけであります。しかし月光を掴もうとすると、指の間からみんな漏れてしまって、月光は掴めない。しかし、何を差別するわけでもなく、区別するわけでもなく、月光は満ちているわけです。仏の教えをいうものはこういうものだという。
「光は万象の具」というのは、どういう意味かと言えば、月光が全部の現象、この世のできごと、我々がやること、心の中すべてを呑んで、包んでいるという意味であります。これは道元禅師の根本的な思想だとおもいます。何にも隠されていないということです。月の光は我々すべてを包む。我々ばかりではなく、川の水も木の葉も虫も鳥も、生きとし生けるものすべてを包んで、何も隠していないということです。
もっと言えば、『正法眼蔵』の中に一貫して流れている思想というのは、真理というものは何も隠されていない。この一瞬、我々の目の前にすべて顕わになって「ある」ということです。過去も現在も未来も、僕たちの目の前に全部「ある」。実際にそうでしょう。人間というものは、いろいろな自然現象を見て、真理というものを一生懸命見ようとするわけです。しかし人間は、まだまだわからないことはいっぱいあるわけです。いっぱいあって、それを解読するというのが、自然科学などの営みです。
道元禅師風に言えば、何も隠されていないのではないか。何にも隠さずに、すべて顕わではないかという考え方です。すべて顕われ、目の前にあるのに、それを知らない我々は、真理がここにあると気付かない我々は、哀れむべき存在であるという考え方だと思うのです。ですから、手の中にいっぱいに満ちる月光は、一つの真理の象徴です。
- 私たちにも一滴の真理が宿る
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例えば『道元の21世紀』という本は、奈良康明先生や東隆真先生たちと一緒に書かせてもらったのですけれども。この、「目の前にある。何も隠されていない」という思想は、「現成公案」という言葉で言えばいいと思います。「現成公案の巻」は『正法眼蔵』の中にあります。この巻が僕は大好きで、何度も何度も、たぶん百回くらい読んでいると思うのですが、それでもわかったとは言えません。僕は、やさしい言葉で翻訳した一説を少し読みます。
「人が悟りを得るということは、水に月が宿るようなものです。月は濡れず水は破れません。月は広く大きな光なのですが、小さな水にも宿り、月の全体にも宇宙全体も草の露にも宿り、一滴の水にも宿るのです。悟りが人を破らないことは、月が水に穴を空けないと同じことです。人が悟りの妨げにならないということは、一滴の露が天の月を映す妨げにはならないのと同じです。水が深く見えるということは、月が空高くにあるということです。悟りがどんな自説見られたたかということは、大きな水か小さな水かを点検し、天の月が広いか狭いかを考えてみればいいのです」
つまり、一滴の水があって、真理そのものである月が、その水に映りますが、その月は水に濡れない。水は月を映しても破れない。我々の心もそうです。真理を宿しても、我々の心は破れない。真理は濡れない。そして月というのは大きな光だということなのだけれども、小さな水にも宿り、月の全体も、宇宙全体も、一滴の露にも宿るということです。草の上に付いている一滴の水滴に宇宙全体が宿る、月全体が宿る。つまり、この中に真理が全部、宿っているということです。
この一滴の草に付いた一滴の露というのは、我々のことです。我々は一滴です。その中に真理が宿るよ、とおっしゃっているわけです。しかも、それは我々が真理を宿したところで、我々はべつに壊れたり、何もしない。何の現象もないけれども、だけど我々は全宇宙と対峙するぐらい大きい存在になるのだよ、ということが、道元禅師が教えてくださっているわけです。
悟りというのは、僕はそのように、一滴の水であるところの自分が、宇宙全体を宿す。月全体を宿すということではないかと思うのです。ですから、小さな人間が大きな宇宙を宿すということは、何よりも我々人間の生きる励ましです。我々は決して小さくないです。かといって、大きいのだと言って増長しては話にならないけれども、しかし全宇宙を宿すほど我々は深い。
それを宿すためには、水が美しく澄んでいなければ、月をそのまま宿すことができないように、我々心を、月を宿すということは、我々の心を美しく澄ませることが必要だいうことだと思います。なかなか難しいことです。
迷える修行僧が、「心の中に月を宿して帰れよ」というようなことを、道元禅師に言われて、泣きながら師に背中を向けてとぼとぼと歩く。そして月の光が会場に満ちていくという場面で芝居は終るのです。今日は芝居のお話をしながら、芝居ということで道元禅師のことを語ろうという気持ちで、話させてもらいました。
京都で、この次にやることになっていまして、『道元の月』というタイトルで、まだ先ですが十月にやります。僕もそのころ京都へ来て、恥ずかしくないものをちゃんと、また東京とは違う芝居をつくって、道元禅師に恥ずかしくないものをやっていきたいと考えています。
道元禅師は京都から追われたというと、京都の方はおもしろくない言い方かも知れませんけれども、歴史的にはそうなのです。ですから京都に戻ってくるということは、僕自身にとっては、何か意味があるような感じがします。道元禅師のあれやこれやを時間内に話をさせていただきました。いくらでも話はあるのだけれども、今日はこのくらいにしておきます。
どうもご静聴ありがとうございました。