禅のお話
今月の法話
木は生き物
「木の行きたいところへ連れいってやる」
こう語る大工さんがいます。
ご本尊さまを安置するお厨子を檜で新調して頂いた時のことです。
休憩時間にお茶をすすめながらお話を伺いました。
「木は生きていますので、わざとらしい使い方をしないほうがいいんです。曲がりたい木もいるし、伸びをしたい木もいるし、自分の流儀を木に押しつけてはいけないと思っているんです。木の行きたいところを探すつもりで、木の言葉を聞き取り、それにあわせて仕事が出来るといいですね、でも最近は時間に追われる仕事ばかりで、ゆっくり木と向き合うことが少なくて残念です」
とおっしゃいます。
曹洞宗のおしえに、「同じ事」と書いて「同事(どうじ)」というおしえがあります。
「同事というは不違なり、自にも不違なり、他にも不違なり」
同事とは、ちょうど母親がホンギャアーと泣いて信号を出している赤ちゃんのことを「知ろう 分かろうとする」ようなことからはじまるのですが、「自分にたがわず、人にもそむかず、互いに同ずる道」が同事であります。
お釈迦さまが説かれた仏教の教えは人間社会だけを対象にされたのではありません。生きとし生けるものすべてが仏の慈悲の対象であります。その意味で「木は生き物」とする大工さんの生き方が、木と向き合う「同事」のこころでお仕事をしておられるのだと思います。
自然の木を中心に仕事をするとなると、管理に注意が要ります。そのことを樹木に含まれる水の量、含水量で説明して下さいました。伐採時は杉でいうと、200パーセントの含水量があります。これを20パーセントにして使いますが、木は呼吸していますので、家が完成したあとで必ずどこかが曲がったり、スキマができてしまうのです。
このような木の歪みも木の個性としてご理解いただけないことがほとんどです、と大工さんは嘆いておられます。
おつきあいの中で、さまざまな個性の方がいらっしゃいます。お互いが個性を活かしあう。互いが大工の棟梁であり、お互いがすばらしい自然の材であることを認め合って生きるのは、いかがでしょうか。