禅のお話
今月の法話
宮殿に生まれた私たち
お釈迦さまはインドの小国に王子として誕生されました。伝説ではその際にご両親を自分で選ばれた、とされます。やっと人間として生まれるのだから適当なところには生まれられないということで、悩みぬき選びぬいた結果としてこの世にお生まれになったのだそうです。
こんなことを言うと、それはお釈迦さまだけの特別なはなしで、自分とは関係ない、と思われるでしょう。けれども、私たち一人一人もお釈迦さま同様、実はこの娑婆世界に自ら望んで生まれ出てきたのだとしたらどうでしょうか。
普通、私たちはこの世界に受身で生まれてきたと考えます。日本に生まれたのも、この時代に生まれたのも、今の両親のもとに生まれてきたのも全部、気がついたらそうだっただけで、自分で選んだわけじゃない、そう思いこんでいます。
実際、親子喧嘩では、親が「そんな子に生んだ覚えはない」と言えば、子供のほうが「生んでくれと頼んだわけじゃない」と言い返す、という光景が繰り返されます。また最近では、若者の「自分さがし」という言葉もよく耳にします。今の自分は本当の自分じゃない、どこかよそに本当の自分らしさを発揮できる場所があるはずだ、そういう思いが漠然と蔓延しているのでしょう。
人生を与えられたもの、と見る感覚がそこにはあるようです。
仏教はそういう考え方をひっくり返します。今の自分の姿は丸ごと自分の選択の結果なのだ、と説くのです。お釈迦さまだけでなく、私たちも時代も場所も親も自分が選んだうえで、「ここに生まれよう」と出てきたのだ、ということです。
自分で選んだのであれば、当然この生の有り様は自分が引き受けるしかないものですし、誰のせいにもできません。仏教は今の自分を受け止めることから始まります。それはお釈迦さまも私たちも同じだ、というのが冒頭の伝説の本当に伝えたいところなのです。
もちろん私たちはお釈迦さまと違って、宮殿に生まれたわけではありません。この世界を意味する「娑婆」という言葉は、もともと「思い通りにならない場所」という意味だそうですから、いろいろと困難も多くあります。しかし、つらい所だと知りながら、それでもなお望んで生まれてきた、それが今の私たちなのです。
「どんな生まれの縁であっても、その場所それぞれが宮殿となる。どんな宮殿も同時に修行のための道場である」、そう道元禅師さまはお示しです。どこかよそによい場所を求めるのでなく、今この場この場を宮殿として生きる努力が私たちには必要なのではないでしょうか。