禅のお話
今月の法話
お伺いしてもよろしいですか?
「お伺いしてもよろしいですか」と電話してきたのは大学院で学ぶ近所のO君。
「ガサガサした落ち着かない生活の中から、静かな時間を選んで瞑想のようなことをしているのですが、たった2〜3分も集中できなくて困ってるんです。それでどうしたらいいか尋ねたいと思ってきました。」と、顔を見るなり言われました。
O君は剣道部現役時代に練習の一部として行っていた坐禅の形を取り入れているということでした。
私はまず初めに坐禅のことを述べたお経の要点を説明しました。
ところが、「一体何を求めて人生を送ったら良いのか解らなくなる時がある」と言うO君。坐禅を教わりたいと云ってやってきたのですが、実は「どう生きればいいのか」に迷っていることがわかりました。
とりあえずO君に坐禅を実際に体験してもらうことにしました。
私は「坐禅の精神が、静かに自身を見つめるよい機会として活かせるならそれでいい。没頭し集中することも自分も大事だけれど、今日のように静かな気持ちになって、一歩退いて見つめる目を持つこと。それも大切ですよ。」そう言葉を添えて、O君を見送りました。
その後、O君の「どう生きればいいのか」の悩みに答えられなかったことを考えていました。
坐禅について道元禅師が示されました『普勧坐禅儀』には
「道本円通争でか修証を仮らん」
と書かれています。
仏道は、もともと円満に備わっているのであって、いまさらあれこれと修行とか証りを求めるまでもない。
修行したあかつきに証りが得られるのではなく、修行していることそのものが証りの姿なのです。
O君に限らず、人には「求める心」があります。
目標を立てて邁進して成就したい、満たされたいと思うのが人の心というものです。それと比べると、坐禅は—求めることと充実や達成が一体である姿—と言えます。
さて「ざぜん」と言うときの「ざ」という漢字を思い浮かべて下さい。人・人と横に二つ並べて書いて、その下に土を書く「坐」という漢字です。土の上にどっかりと腰を下ろす。これが「坐」の意味です。
重心を下げる姿勢をとると心にも落ち着きが出てきます。坐禅は土に近づき、どっかりと地面との一体感を取り戻す姿勢なのです。
山のようにどっしりと落ち着いた感じに坐るのがいいとされています。
坐禅をしているうちに「どう生きればいいのか」がひらめくというわけでもありませんが、まず心を落ち着かせることが出来ます。頭だけで考えようとせずに身体と心の重心を一つにしようと心がけ、背筋をまっすぐに立てる姿勢をとるうちに、静かで確かな生き方が身体の奥から出てくるに違いありません。
今度はO君にこのことを伝えたいと思っています。