禅のお話
今月の法話
善財童子
昔、印度の国に、善財童子という少年がいました。
お金持ちの家の子供でしたので、なに不自由なく過ごしていました。
頭の良いことにかこつけて、毎日遊んでばかりいましたので、みんなからは馬鹿にされていました。
ある日のこと、それに気がついた善財童子は、心を入れ替え勉強しようと思い立ち、旅に出ました。
いろいろな人々を、次々に訪ね歩いて教えをうけて回る旅でした。その訪ね歩いた人たちというのが、名もない人々でした。善財童子は、気がつきます。
「どんなにつまらなそうに見える人でも、何か一つは立派なものを持っているものだ」
善財童子は、ますます真剣に「多くの人から、出来るだけ教えを受け、自分の心をみがき、人に笑われないようになりたい」と、旅を続けました。
こうして彼は、「五十三人」の人々から、たくさんの智恵や経験を学び、立派な心の人になったということです。
善財童子の昔話を聞く時、何不自由なく毎日を過ごしていた善財童子と、現代の子供たちの立場が、共通しているように思います。現代の子供たちが、善財童子と同じように、頭が良いことも共通しています。
では、決定的に違うところはどこでしょう?
「心を入れ替えて、勉強しなおそう」と気がついたか、気がつかなかったかということです。
「ああ、これではいけない。何とかしなければ」と心の中から湧き上がってきたのが、善財童子の素直な心であり、立派なところです。この素直な心が大切なのです。
私たちの先祖も、善財童子の素直な心を見習うために、江戸時代に「東海道五十三次」の宿場がつくられました。五十三次は、五十二でも、五十四でもその他の数ではいけないのです。
「五十三次」は、この善財童子の昔話に由来する数字で、素直な心の大切さを教えているのです。
小学校を卒業しただけで、大変な努力と情熱で、大作家と仰がれた吉川栄治さんは
「われ以外、みなわが師なり」
「出会う人、出会う人、自分にとっては大切な人生の先生である」
と云っておられます。善財童子と同じ心境です。
私たちも、善財童子のように「多くの人から、出来るだけ教えを受けて、自分の心をみがき、人に笑われないようになりたい」と念じ続けたいものです。