過去の法話

生死

京都府 導故寺住職 木下光章 老師

仏教では「人は誰でもみな、仏と成ることができる」と、仏となるために実践する「六つの道しるべ」があります。
この「六つの道しるべ」のことを、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と言います。

この「六波羅蜜」を実践することにより、(仏の智慧)(単なる智慧でなく、どこまでも深まっていく智慧)が身に付き、誰でもみな、仏と成ることができると、説かれています。

一、布施(ふせ)ほどこしをすること
二、持戒(じかい)戒を持って生きること
三、忍辱(にんにく)堪え忍ぶこと
四、精進(しょうじん)努力すること
五、禅定(ぜんじょう)坐禅すること
六、智慧(ちえ)前五つの道しるべの実践によって身につく仏の智慧のこと

今日はその第4番目の「精進」ということのお話をします。
仏教でいう精進というのは「ゆったりとした努力」のことです。

こんなお話があります。
ある高名な剣の達人=剣客のところに、一人の若者が入門を請いに来ました。
「先生、私が本気で修行をすればどれくらいで奥義を得られるでしょうか?」と聞きました。
「まあ、10年くらいだろう」と答えました。
「それでは寝食を忘れてもっと修行すれば?」と聞くと、
「それなら20年くらいだろう」と答えました。
「それでは、死ぬ気で修行すればどうですか!?」と強く詰め寄ります。
すると「そんなことでは、一生かかっても無理だな」と答えました。
これを聞いた若者はとうとう怒りだしてしまいました。
しかし、剣客は今の教えが、どういうことか分るまでは、入門を許さないと言います。

実は、この若者、本当の意味での精進を知らなかったのです。
無茶な精進は精進ではなく、執着である、と言う事に気づいていません。剣客はまず、この執着、とらわれる事を捨てよ、と教えているのです。

お釈迦さまは様々な苦行・荒行を重ねられた結果、片寄った精進努カではだめだと気づかれました。そしてどちらにも片寄らない「中道(ちゅどう)」に生きることを悟られました。
仏教の精進というのは、当たり前の事を当たり前に、人間らしくゆったりと努カし・歩み続ける事なのです。

これならみなさんにも実践できるのではないでしょうか?

2003/01/21